▼『アカデミー賞』川本三郎

アカデミー賞: オスカーをめぐる26のエピソード (中公新書 964)

 もともと組合対策として発足した団体の副産物だったアカデミー賞は,60年にわたる歴史のうちに,アメリカのみならず世界中に数多の話題を提供する映画界最大のイヴェントとなった.本書は,エリザベス・テイラー,マーロン・ブランドらの大スターから,消えていった俳優,監督,プロデューサー,デザイナーたちの豊富なエピソードを重ねながら,戦争や赤狩りを経ても,今なお不滅の栄光を放ちつづける秘密を伝える読物である――.

 やかさが極点に達し,もはや一大アトラクションと化したアカデミー賞――豪奢な授賞式の背後には,映画産業の政治経済的力学と,名声に取り憑かれた人々の欲望が複雑に交差する.本書は,その光と影を26のエピソードで描く,生々しい「オスカー裏面史」.そもそもアカデミー賞は,労働争議を抑え込むための制度的装置として生まれた歴史がある.1920年代のアメリカでは,映画業界のスタッフや俳優たちが急速に労働組合化を進めていた.スタジオ経営者らはそれに対抗すべく,1927年に「映画芸術科学アカデミー(AMPAS)」を設立する.

 創設の中心にいたルイス・B・メイヤー(Louis Burt Mayer)は,賞を与えることで映画人を満足させ,労使協調の組織化に成功する.これが後の世界最大の映画祭の原型となった.アカデミー賞は当初から懐柔と支配のための制度であったという皮肉である.戦争,冷戦,"赤狩り"の時代をくぐり抜けたアカデミー賞は,1970年代にはすでに政治的ショーへと変貌していた.作品の芸術性よりも,社会的メッセージや興行的成功が優先される傾向が強まり,式典がアメリカ文化の発信装置として機能するようになる.1973年の第45回アカデミー賞では,マーロン・ブランド(Marlon Brando)が「ゴッドファーザー」(1972)で主演男優賞を受賞したものの,ネイティブ・アメリカンの権利擁護を訴えるため,代理として活動家サチーン・リトルフェザー(Sacheen Cruz Littlefeathe)を登壇させ,受賞を拒否した.

 スピーチは全米で放送禁止となり,会場にはブーイングが巻き起こった.この瞬間,アカデミー賞は娯楽の舞台から,アメリカ社会の矛盾を映し出す政治劇場と化した.一方で,栄光の裏には常に屈辱の影がある.フランク・キャプラ(Frank Russell Capra)は「或る夜の出来事」(1934)で主要5部門を制覇するという快挙を成し遂げながら,作品の道徳主義や感傷性を揶揄され,戦後には時代遅れの存在とみなされた.キャサリン・ヘプバーン(Katharine Hepburn)のように"欠席常連"として知られた俳優もいた.12回ノミネートのうち4回受賞しながら,一度も授賞式に出席しなかったヘプバーンにとってオスカー像は,芸術家としての矜持よりも,商業主義でしかなかったからである.

 オスカー像のモデルはメキシコ系俳優エミリオ・フェルナンデス(Emilio Fernández)で,当初は裸体像としてデザインされたが,検閲を恐れて腰布が加えられたという.印象的なのは,「風と共に去りぬ」(1939)で助演女優賞を受賞したハティ・マクダニエル(Hattie McDaniel)の境遇である.アフリカ系俳優として初めての受賞者だったが,当時の会場ホテルが人種差別方針を取っていたため,マクダニエルだけは会場の隅の席に座らされた.本書は,こうした断片的なエピソードを通じて,アカデミー賞をアメリカ文化の縮図として読み解く視点を提供する.オスカー像の金色の輝きは,栄光の装飾と呼ぶことはできない.ハリウッドという巨大な夢工場が生み出した光と影の総体である.

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原題: アカデミー賞―オスカーをめぐる26のエピソード

著者: 川本三郎

ISBN: 4121009649

© 1990 中央公論新社

■「縞模様のパジャマの少年」マーク・ハーマン

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 第二次世界大戦下のドイツで,ナチス将校の父の昇進により一家で殺風景な田舎に引っ越してきた8歳のブルーノ.退屈なあまり,母から立ち入りを禁じられていた裏庭から奥の森へと探検に出たブルーノは,フェンスの向こう側に住む同い年のシュムールと出会う.彼との友情が,やがて自分の運命を大きく変えてしまうとは知らずに….

 賞前に余計な知識をもたない方が,この作品は確実に刺さる.マーク・ハーマン(Mark Herman)は,「ブラス!」(1996),「リトル・ヴォイス」(1998)など社会的な題材を軽妙なユーモアで包む手腕を発揮してきた.BBCとミラマックス=ディズニーという大衆的な配給網のもとで,これほど残酷な作品を作り上げたことは,興味深い.原作はアイルランド人作家ジョン・ボイン(John Boyne)による同名小説で,全世界で1,000万部以上を売り上げた.原稿をわずか2日半で書き上げたという逸話が残されているが,その異様な集中力が作品の純粋すぎる悲劇性と響き合っている.

 観客が最初に違和感を覚えるのは,「パジャマ」という言葉の柔らかさだろう.それはアウシュヴィッツの収容服である.だが,8歳のブルーノの視点では縞模様の服にすぎず,世界の残酷な秩序は「見えない」ままである.この見えなさこそが,本作の核心である.ハーマンは,現実とファンタジーを明確に分離させて描く.収容所のリアリティを追求するかわりに,童話的なトーンを選び,観客をブルーノの無知な視界に閉じ込める.煙突から上がる煙,人形を積み重ねた暗喩的カット――観る者が知識として知るホロコーストを,ここでは「知らない子供のまなざし」を通して再体験させられるのだ.

 ブルーノの家庭の内部は,当時のドイツ社会の縮図として緻密に構成されている.ナチスに協力する祖父,体制に反発する祖母,葛藤を抱えながらも沈黙を選ぶ母親,そして教育によってナショナリズムに染まる姉.誰もが「自分なりの正しさ」に従って行動しているが,誰も真実を見通せない.「群盲象を撫でる」という故事のように,時代を生きるとは,全体像を失ったまま部分を信じることにほかならないからだ.ラストシーンの圧倒的な衝撃――少年の「遊び」が,取り返しのつかない現実に転化する瞬間――は,観客に対しても倫理的な責任を問う.

 ブルーノの純粋さは,知ることを拒んだ社会そのものの象徴でもある.観客は2人の無垢な少年に感情移入するほど,自分の無知に胸を突かれる.この構造が本作を知の怠惰に対する警鐘へと昇華させている.また本作は,言語的リアリズムを捨てることで,物語を普遍化した.ドイツ語ではなく英語で語られるナチスは,「他人の過去」ではなく「いま自分たちの社会にも起こりうる暴力」の比喩として響く.BBC制作でありながらディズニーが配給を担ったことも,当時論争を呼んだ.あの夢と希望の象徴たるディズニーが,無垢の悲劇を包み隠さず世に出したのだ.

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原題: THE BOY IN THE STRIPED PYJAMAS

監督: マーク・ハーマン

95分/イギリス=アメリカ/2008年

© 2008 Miramax

■「マーシャル・ロー」エドワード・ズウィック

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 ブルックリンでテロリストによる爆破事件が勃発.テロ対策本部長に就任したFBIのハバード捜査官が事件現場へ行くと,そこにはなぜか管轄外のCIA諜報員エリースが捜査に乗り出していた.エスカレートするテロに街では一触即発の緊張が高まり,ついに戒厳令(=マーシャル・ロー)が発令された….

 メリカが「テロとの戦い」に突入する数年前に制作されたにもかかわらず,9.11以後のアメリカ社会を予見したかのような内容である.原題"The Siege"は「包囲」を意味し,フランス語"État de siège(合囲状態)"──戒厳令発動の前提となる国家的緊急事態──を想起させる語である.邦題は直訳すれば「戒厳令」.その響きの重さを避けるため,あえて英語表記が採用された.「マーシャル・ロー」は原題決定前の仮題であったが,結果的に包囲と戒厳という2つの概念を重ね合わせた選択となった.

 物語は,ニューヨークを舞台に連続する大規模テロによって,自由と安全の均衡が極限まで崩壊していく過程を描く.戒厳令が発令され,街は完全な軍事支配下に置かれると,アメリカが自ら誇る自由の国という理念が,テロ対策の名のもとにいかに容易く封じ込められるか──本作はその危うさを冷徹に可視化している.印象的なのは,CIAと連邦軍が国内で活動し,市民を拘束・尋問する描写であろう.

 アメリカ憲法上,CIAの任務は国外に限定され,国内の治安維持はFBIの管轄である.だが映画では,その線引きがテロの脅威の前に崩壊していく.まさに9.11後の愛国者法によって現実化した事態であり,本作はアメリカが実際に踏み入れることになる監視国家への入り口を,3年前に寓話として提示していたのである.エドワード・ズウィック(Edward Zwick)とデンゼル・ワシントン(Denzel Washington)の組み合わせは,「グローリー」(1989),「戦火の勇気」(1996)に続く3作目にあたる.

 ズウィックは正義と倫理のせめぎあいを軸に,娯楽映画の形式を通じて国家権力や個人の責任といった道徳的課題を描き続ける知的アクションの旗手とされていた.劇中ではアラブ系アメリカ人の強制収容が描かれたため,公開当時,一部のイスラム系団体から強い抗議が寄せられた.その描写こそが,2001年以降のアメリカ社会が現実に経験する「恐怖による分断」の予兆であった.

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原題: THE SIEGE

監督: エドワード・ズウィック

118分/アメリカ/1998年

© 1998 20th Century Fox

■「ブラディ・サンデー」ポール・グリーングラス

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 1972年1月30日,日曜日.北アイルランド,デリー.これまで長年に渡って様々な差別や迫害に苦しめられてきたカトリック系住民はこの日,差別撤廃を求めてデモ行進を行なうことに.“平和的な行進”にもかかわらず,政府は多数の軍隊を投入,過剰な警備を行なう.やがて若いデモ参加者の一部には興奮を抑えられない者も現われ,主催者のコントロールが及ばなくなっていく….

 用・住宅の保障,選挙の民主化など全般的に「差別」撤廃を訴える平和的デモ行進が,一瞬にして惨事に変わる.それを捉えるショットは,映画の文法的には「シネマ・ヴェリテ」方式.すなわち大幅にブレ続けるハンディカメラの映像,自然光での撮影は,真実の描写を意図とする作風の典型である.北アイルランドのカトリック系レパブリカン,プロテスタント系ロイヤリストの対立は,政治的要請を体制側に呑ませ,利益を確保するために,民間人を犠牲にすることも厭わない勢力を生んだ.

 アイルランド以外では,中近東の民族主義者,中南米そして西側諸国における左翼革命に尖鋭化した運動グループである.イギリス社会問題研究所(SIRC)の報告によると,イングランドでは社会階級,スコットランドや北アイルランドでは宗教間対立,イタリアでは地域間摩擦が指摘できるという.だが北アイルランド紛争史上最悪の悲劇,1972年1月30日「血の日曜日」は,民間人の殺害を是とするテロ・グループの暴挙と鎮圧の結果ではなかった.公民権を訴える非武装のデモ参加者が,過剰警護のイギリス兵士に狙撃され,13名が死亡,14名が負傷(うち1名がその後死亡)という悲劇を辿った.

 事件を裁いた英国高等法院王座部の首席裁判官は,鎮圧にあたったイギリス軍の正当性を認め,丸腰の住民を射殺した兵士の誰も刑罰を受けることはなかった.むしろ犠牲者には「爆弾所持」の汚名が被せられ,その不公正を断罪するために,遺族が支援ネットワーク"Bloody Sunday Trust"を立ち上げている.政治事件を扱う以上,どのような映画でもプロパガンダの様相を呈する.本作でも,権利要求デモで士気を鼓舞する応援歌《We shall overcome》――賛美歌第二編164番を編曲,変形させた替え歌――を,行進中の群集は歌う.

 エンドロールは,U2の《Sunday Bloody Sunday》.ライブでは「俺たちはいつまでこの歌を歌わなければならないのか」と絶叫して披露することが慣例となっている.「血の日曜日」以後,北アイルランド議会は解散,イギリスの北アイルランド直接統治が開始されるが,1994年9月に小休止を得るまで,IRAの過激活動は続くことになる.駐留英軍や北アイルランド警察へのゲリラ攻撃,ダブリンのイギリス大使館焼き打ちなど,2000年代初頭までにテロ犠牲者は3,000人を数えた.記録映像的に,遺恨を顧みるべき作品である.

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原題: BLOODY SUNDAY

監督: ポール・グリーングラス

110分/イギリス=アイルランド/2002年

© 2002 Paramount Pictures Classics

▼『誰も語らなかった首都腐敗史』森田実,斎藤貴男

誰も語らなかった 首都腐敗史

 豊洲市場の移転問題,東京五輪の費用肥大化,噴出する難題に連日熱狂するメディア……劇場型都政が幻惑する伏魔殿・東京の巨大な闇に辛口の政治評論家・森田実と「反骨のジャーナリスト」斎藤貴男が舌鋒鋭く切り込む,本邦初の「都政腐敗史」対談.すべての腐敗が一目でわかる「都政腐敗史年表」付き――.

 島幸男から石原慎太郎,猪瀬直樹,舛添要一,小池百合子に至る歴代知事の系譜を,著者らは都政の連鎖腐敗史と呼ぶ.青島によって「タレント知事」という概念が都政に導入され,石原はそれを「権力の芸術」へと昇華させた.その後の二代――猪瀬・舛添――は,実務よりも自己演出の維持に腐心し,結果として小池の「劇場型政治」が完成する舞台を整えた.

 本書の対談は,東京都庁という巨大官僚機構が中央政府の出城として機能している実態に切り込み,地方自治の理念が名ばかりの虚構であることを論じる.小池が掲げた「都政の見える化」というスローガンも,実際には不透明な権力構造を覆い隠す演出装置に過ぎなかったという指摘は鋭い.豊洲市場の移転問題や東京五輪の費用肥大化は,もはや一行政の失策ではない.そこに潜む構造的欠陥,すなわち責任の所在が常に霧散する組織的無責任の体質である.

 丸山眞男がかつて警鐘を鳴らした「無責任の体系」の21世紀的再演である.対談の核心は,メディアが都政をいかに虚構化してきたかという問題にある.かつて石原都政が推進した「ディーゼル車NO作戦」は環境対策として賞賛されたが,排ガス測定機器の調達を都庁が外資系企業に依存していた.環境政策の名の下に,都政と外資の利害が密接に結びついていた事実はもう忘れられている.新聞やテレビは一貫して都政を娯楽化し,政策よりも人物劇に焦点を当て続けてきた.

 ローマ帝国の「パンとサーカス」に通じる大衆操作とみるならば,小池劇場の本質もまた,観客=都民を政治的傍観者へと変貌させる点にあるといえるだろうか.巻末「都政腐敗史年表」に列挙された出来事の一つひとつは,メディアの沈黙,都民の無関心,政治家による演出の積み重ねによって覆い隠されてきた.首都の腐敗──痛烈な比喩による批判だが,日本社会全体に漂う「責任の喪失」という臭気そのものを意味している.

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原題: 誰も語らなかった首都腐敗史

著者: 森田実,斎藤貴男

ISBN: 4880863521

© 2017 成甲書房