▼『記憶術全史』桑木野幸司

記憶術全史 ムネモシュネの饗宴 (講談社選書メチエ)

 スマホをアップデートしたら,画面がガラッと変わって,お目当てのアプリや写真がどこにあるのか分からなくなった……そんな経験を思い出せば,「記憶」は「場所」と結びついていることが分かる.この特性を利用して膨大な記憶を整理・利用できるようにする技法が,かつてヨーロッパに存在した.古代ギリシアで生まれ,中世を経て,ルネサンスで隆盛を極めた記憶術の歴史を一望する書.最先端で活躍する気鋭の著者による決定版――.

 書の射程の「記憶術」とは,1)心の中に仮想の建物を建て,2)そこに情報をヴィジュアル化して順序よく配置,3)それらの空間を瞑想によって巡回,という一連のプロセスからなる効率的情報処理システムをいう.建築のもつ「秩序的空間連鎖」にイメージのもつ「情報圧縮力」を組み合わせる知的方法論である.これはギリシアソフィスト時代にヒッピアス(Hippias)やシモニデス(Simōnidēs)が教え実践していた"場所的記憶術"の応用.古代ローマの弁士キケロ(Mrcus Tullius Cicero)は,雄弁術をもって執政官に就任し最高の教養と雄弁をもって,不正の弾劾演説を行った.

 彼の理想は「学識ある弁論家」,すなわち森羅万象に通じた雄弁術,場所的記憶術はその雄弁を支えるディシプリンとして確立されたのである.紙のなかった時代には,政治家や文人は雄弁をもって大衆を心酔させ熱狂させた.弁論術が衰退するとともに,記憶術は歴史に表舞台から次第に姿を消す.ルネサンスあるいは初期近代(15~17世紀初頭)に入ると,古代ギリシアやローマの著作物が続々と出版され,教養人のデファクトスタンダードとして膨大な知識と卓見が急速に求められるようになった.

 ルネサンス期の法学者はかつてのディシプリン――記憶術――を使い,2万にも及ぶ法律書の要点や膨大な注釈を記憶し,それらを自由に取り出すことができたという.氾濫する情報を巧みに整理し賦活する秘儀として復権した記憶術だが,合理主義的思考が台頭した18世紀以降には必然的に衰退し,今となっては受験や検定試験といった効率的ツールの座に甘んじてしまっている.技芸としての記憶の古典的な権威――知悉した場所(トポス)を脳内に記憶し自在に想起する――は,失われて久しい.本書のもっとも重要な指摘は,記憶術は単に「情報の記録」ではなく,創造的思考には不可欠な営み――一種の「結合術(アルス・コンビナトリア)――であったことを記すライムンドゥス・ルルス(Raimundus Lullus)の見解だろう.

 個人の知が百科全般に通じることはあり得ない前提に立つならば,いかなる賢人も既存の思想や理論を汎用しなければ全知を導くことはできない.過去の叡智を動員することで,新たな知や観念の体系化の展望が開かれるだろう.このことは,獲得された基本概念を結合することによって世界の諸法則を捉えることができると考えたゴットフリート・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)のドラスティックな結合的・多元論的創造観を想起させるに十分.まさに,記憶はアーカイブを超えて知的生産活動の土壌というほかないのである.

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原題: 記憶術全史―ムネモシュネの饗宴

著者: 桑木野幸司

ISBN: 4065140269

© 2018 講談社