▼『明暗』夏目漱石

明暗 (新潮文庫)

 勤め先の社長夫人の仲立ちで現在の妻お延と結婚し,平凡な毎日を送る津田には,お延と知り合う前に将来を誓い合った清子という女性がいた.ある日突然津田を捨て,自分の友人に嫁いでいった清子が,一人温泉場に滞在していることを知った津田は,秘かに彼女の元へと向かった…濃密な人間ドラマの中にエゴイズムのゆくすえを描いて,日本近代小説の最高峰となった漱石未完の絶筆.用語,時代背景などについての詳細な注解,解説を付す――.

 の作家生活において,後期には人間の心の醜悪な「襞」を夏目漱石は描いた.人物の心理解剖の手法は,これまでになく実験的に見えたが,結果的には未完の絶筆となった.それにより,この作家の本懐を匂わせたまま,作品のもつ「宇宙」は,全容を誰にも知られることなく閉じてしまった.結婚して間もない会社員の津田は,持病の痔の手術代の工面に迫られていた.妻のお延は義妹のお秀と折り合いが悪く,津田は手術代も捻出できない.

 ぎくしゃくとした関係の津田夫婦だが,津田には結婚前に交際していた清子という女性がいた.いまは清子は人妻の身である.清子が流産し湯治していることを知った津田は,温泉宿で清子と再会する.彼女は驚きを隠さないが,翌朝,津田を自分の部屋へ招き入れた.人間の百鬼夜行の醜悪な心理解剖.夏目のこれまでの小説にみる手法とは一線を画しているのは,女性像とその心理描写にある.

 本書では,封建的な価値観を守り,か弱く従順でありながら,体の知れぬ心得を抱えた存在,とこれまで描写されることの多かった女性が,男性に匹敵する「自我」を主張する.このことが,際立った特徴を作品に与えている.手術代の不足や父からの送金不履行で,金の無心をさせられそうになるお延の頑なな拒絶は,夏目の作品の中でも異色の振舞といえる.

 近代知識人としての人間のエゴイズムとその克服,その過程で生じる苦悩から,人間は逃れることはできない.この生涯のテーマを,本作ではどう決着しようとしたのか.それは永久に未知のままである.説明し尽くすような情景や人物描写のうえに,人間不信からなる関係性の軋みがみられるところで,物語はぷっつりと切れている.

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原題: 明暗

著者: 夏目漱石

ISBN: 4101010196

© 2010 新潮社