オスマン帝国は1299年頃,イスラム世界の辺境であるアナトリア北西部に誕生した.アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸に跨がる広大な版図を築いた帝国は,イスラムの盟主として君臨する.その後,多様族・多宗教の共生を実現させ,1922年まで命脈を保った.王朝の黎明から,玉座を巡る王子達の争い,ヨーロッパへの進撃,近代化の苦闘など,滅亡までの600年の軌跡を描き,空前の大帝国の内幕に迫る――. |
オスマン一族を中心に13世紀末小アジア北西部で形成されたオスマン帝国は,アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸に跨がる版図を築き1922年の滅亡まで600年の命脈を保った.滅亡100年を迎えた今日,現在のトルコ共和国では親イスラムの公正発展党政権のもと,オスマン帝国時代を「偉大なる我々トルコ人の過去」と位置づけ,かつてオスマン時代を退廃と停滞と見なしていた歴史的評価は変容と再興を遂げつつある.本書は,王位継承をめぐる王子たちの死闘,ヨーロッパへの進撃や近代化の波への抵抗と敗北といったオスマン帝国600年をコンパクトにまとめた通史.日本人の手によるオスマン帝国通史としては,1966年の三橋富治男『オスマン・トルコ史論』以来の成果である.
アッバース朝期にカリフが次第に神権的専制君主化していく過程で,オスマン帝国の宮廷儀礼,建築,学問と芸術などあらゆる面で栄えた.16世紀のスレイマン1世時代に帝国版図は最高潮に達し国家官僚による統治機構が確立されたわけだが,常備軍(イエニチェリ)の軍事力をもってしてもドイツ,ポーランド,ロシア,ベネチア連合軍の侵攻に耐えきれずバルカン半島,黒海沿岸を手放し西欧列強に屈して混乱を収拾することはかなわなかった.スルタンはトルコ系のオスマン家の血統が絶対条件であるが,スルタンの母親は一部の例外を除いてハーレム出身の奴隷出身,ビザンツやセルビア,ベイリクの王女と婚姻したケースでも,外戚の権力拡大を排除するために子がスルタンになることはほとんどなかったという.
王朝の内部では非トルコ系のギリシャ,アルバニア,セルビア系も共存した柔軟な体制をとっていたことに驚かされる.しかし,王位継承権をめぐる血生臭さの白眉は,凄惨な子殺し・兄弟殺しであった.ムラト2世(Murat Ⅱ)は弟を処刑,幼い2人の目を潰し,メフメト2世(Mehmet Ⅱ)は乳児だった弟を処刑,「世界の秩序が乱れるより,殺人のほうが望ましい」というイスラーム法学者の意見を得て,世襲の君主制を維持するため合理化した兄弟殺しの法令を定めた.メフメト3世(Mehmed III)即位時の残忍さはまさに常軌を逸していた.幼い弟19人が即位の祝辞を述べるなか,メフメト3世は彼らの運命を思って顔を向けられなかったという.19人は式典のあと全員処刑された.
忠誠の誓い,帯剣式,先代スルタンたちの墓廟への参詣,そして5人の弟の処刑など,スルタン即位のための一連の儀式と慣行はつつがなく執り行われ,ここにムラト3世の治世が始まることとなった
1000年続いたビザンツ帝国は幾度も王朝を交代させ,またオスマン帝国をはるかにしのぐ広大な版図を誇ったモンゴル帝国は,わずか150年ほどで歴史の表舞台から姿を消した.しかし,イスラムの盟主でもあり多様族・多宗教の共生を実現していたオスマン帝国は,単一の王朝を維持したまま500年以上存続したのである.叛乱の芽を摘むという意味ではイスラーム法学者の進言は一定の効力があった.だが,近代化の遅れにより軍事的優位を喪失していったオスマン帝国は,1908年青年トルコの革命,さらに1911年イタリア・トルコ戦争,2次のバルカン戦争で体制維持が困難となり36代で滅びた.
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原題: オスマン帝国―繁栄と衰亡の600年史
著者: 小笠原弘幸
ISBN: 978-4-12-102518-0
© 2018 中央公論新社