▼『馬鹿について』ホルスト・ガイヤー

馬鹿について―人間-この愚かなるもの

 人間は愚鈍という実り豊かなひざに抱かれて,永遠に変わらぬ夢を見続けているのであり,そのおかげで初めて生きて行こうという気になれるのである……愚鈍が,ただ愚鈍だけがこの人生の守り神であって,これによって初めて錯覚のヴェールが織られ,仕合わせな誤謬が知能のヤリ玉に上がらずに済み,人生が辛抱できるようになるのである――.

 イツの古い諺に,無駄骨を折ることを「空の麦わらを扱(こ)く」という.また“馬鹿”を指して「麦わら頭」という.したがって,本書カバーの意匠に採用された写真は,扱かれて潰れた23本の麦わらなのである.本書の袖には「これはたいへん親しみ深く,かつめでたいものである」とあった.アンブローズ・ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce)級の毒である.誰もが真正の馬鹿とは思われたくないものだが,知能の度合いがそれを意味するものでないことは確かなのだ.

問題はただ「一つ」の馬鹿ではなくて,つづめていえば「一の多」ということになる.つまり人間の馬鹿げた行動にはいろいろの原因があって,それを一つ一つ調べていくことこそ,われわれのテーマでなければならない

 以下は単なる恣意的思いつき.『ファウスト』の碩学ファウスト博士の嘆きは,哲学,法学,医学,神学のすべてを究める以前と以後では,まったく「賢く」なっていないことにあった.悪魔メフィストの誘惑に乗りファウストは魔女の厨,ヴァルプルギスの夜を訪れ,峨々たる岩の頂上で「世界の生成について」思索を巡らす.人類の愚行は結局,学問の修得などに左右されるものではないという「諦念」.さらに知恵の不足,充分,十二分に共通するおびただしい愚行は,本書第一部「知能が低すぎる馬鹿」第二部「知能が正常な馬鹿」第三部「知能が高すぎる馬鹿」で,すべからく人類の馬鹿さ加減を暴露している.

 ホルスト・ガイヤー(Horst Geyer)の設置した壮大な“網”から,誰も漏れることはない.1907年ドイツ・エナ生まれのガイヤーは,モンゴロイドの知的障害を専攻した人類遺伝学者だが,そのキャリアは意外なほど知られていない.ガイヤーはカイザー・ウィルヘルム人類学研究所研究員,デュッセルドルフ大学神経科医長等を歴任し,戦時中はハルレーデラウ空軍病院の精神病棟主任となった.戦後はバード・ツビッシェンナーン精神病院長に就任するが,肝臓病で1958年に急逝した.

 学術的に本書の枢要をなすとガイヤーの考えた二編(「精神薄弱諸状態の原因について」「身体精神的諸問題」)は,あまりに専門的なため邦訳においては割愛された.本書でなされる主張の性格上,どんな省略や歪曲も内容に致命傷を与えない.なぜなら完全な「真理の認識」が不可能なのに,われわれは「錯覚,誤謬,お世辞,故意の真実回避」を食って生きているから.真理を捉まえたいという誘惑を最も確実に防いでくれるものこそ,「愚鈍」.おそらく無知や馬鹿であることをやめようとする場合に,人間の愚かさは最大限に増幅されるという譴責である.

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Title: ÜBER DIE DUMMHEIT

Author: Horst Geyer

ISBN: 4422930036

© 1958 創元社