▼『無名作家の日記』菊池寛

無名作家の日記 他九篇 (岩波文庫)

 大正年間に書かれた現代物の傑作10篇を収める.なかでも,作者自身をモデルにした無名作家富井の,すぐれた才能を持つ文学仲間山野(芥川竜之介),桑田(久米正雄)らへの嫉妬や焦燥の念を冷徹に描いた文壇的出世作「無名作家の日記」は菊池寛(1888‐1948)の人生および芸術に対する態度を示し,その人と文学を知る上に重要な作品である――.

 川県高松市に生まれた菊池寛は,旺盛な読書欲で,市立図書館の蔵書2万冊を手当たり次第に読破した.博覧多読の収穫は,題材の広さと明確な主題の展開を両立させた「テーマ小説」となって結実し,『無名作家の日記』『忠直卿行状記』『恩讐の彼方に』などの傑作が生まれた.しかし,『新思潮』を創設した盟友・芥川龍之介が『鼻』で,文壇の先導者・夏目漱石の激賞を受けたことと対照的に,菊池の作品は当時の実力者の目を引くことはなかった.

 アイルランド近代劇の影響から劇作家を志しながら,限界を感じ小説に転向した菊池は,それ以前にも東京高等師範学校,第一高等学校の挫折を経て,いくつかの大学を転々とした.成瀬正一の実家の援助を受け,からくも京都帝国大学文学部英文学科を卒業している.文学の道を断念しようかと考えた菊池が,起死回生を図って執筆した本書の表題作「無名作家の日記」は,『中央公論』に掲載された.

 原稿を読んだ編集者は,芥川への嫉妬と競争心を読み取り,菊池に懸念を伝えたほどである.大正期の教養派,自然主義文学,耽美派の盛栄の中では,菊池の初期作品には見劣りする部分もあったと,小林秀雄は批評している.人間が滅んでしまえば,数々の芸術作品も意義を失うと自分を慰める「俺」の敗残の感覚は,センセーショナルな関心を呼び,菊池に脚光がもたらされる契機をなした.

 シニックな経歴で文学の系譜に加わることが宿命づけられた作家といってよいが,読後感はまるで嫌味を残さず,清々しい感動を与えるものも多い.人間の内面を理知的に解剖するテーマ性の堅実さ,飾り気のない文体.挫折や焦慮に過敏な神経をもっていた菊池は,人の身では計り知れない人生の非情,自己理解の確立に苦しむ人間性などを,封建的な題材に求め,その文学的骨頂を期したのである.

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: 無名作家の日記―他九篇

著者: 菊池寛

ISBN: 4003106326

© 1995 岩波書店