▼『ジェニーのいた庭』ダグラス・プレストン

ジェニーのいた庭 (ハヤカワ文庫NV)

 人類学者アーチボールドの家に,ある日チンパンジーのジェニーがやってきた.生まれたときに母親を亡くしてアーチボールドにひきとられ,自分を人間と思っているこの愛らしい動物を,一家は暖かく迎えた.とくに息子のサンディとの間には,まるで兄妹のような絆が生まれていく.やがて,霊長類研究のためにジェニーは手話を学ぶことになるが,発情期にさしかかったとき,悲劇が一家を訪れる.実話にもとづいた感動の物語――.

 綿密な逐語録の集成という構造は,フィクションであることを束の間忘れさせる.しかし第一次史料で用いられた「記録」は,基本的に事実に即している.その意味の重さが,読後に圧し掛かるように迫ってくる.賢い雌チンパンジー”ジェニー”の発揮した驚くべき学習能力,人間の子どものような幼児性,抽象的思考をめぐる混乱,人間の「友人」と本来の「野生」の攻防に由来する呻吟.これら個別のエピソードは,人間と共同生活を送った”実験用”チンパンジーに観測された事実であった.人間とDNA情報を98.5%共有し,大脳の情報処理プロセスは人間と酷似.疑いなく,種の観点からいえばわれわれに最も近しい隣人がこの大型類人猿の一種なのである.

 チンパンジーの知的能力の実証研究を進め,世界的権威となったジェーン・グドール(Jane Goodall)は,チンパンジーが人間の関心を惹きつける最大要因は,1)道具使用や道具製作の能力,2)50年あるいはそれ以上にもおよぶ一生涯にわたって続く親密で互いに支え合う家族の絆,3)複雑な社会交渉,協力,利他的な行動,4)喜びや悲しみといった感情の表現であると『限りなく人類に近い隣人が教えてくれたこと』の序文に書いた.まさに自然人類学と文化人類学の間隙を埋めるポテンシャルへの言及といえよう.ジェニーに教え込まれたのは,一社会の人間に備わるべき「躾」「宗教観」「コミュニケーション技術」などであった.

 フランツ・ボアズ(Franz Boas)以来,文化とは「人間の性質」であり,人間は経験を格付けする能力があり,象徴的に格付けたものをよみとり,その抽象概念を他人に教える能力があると理解されてきた.形質人類学者が,ジェニーに人間の「よき習慣」を植えつけようとした試みは,臨界点を迎えるまでは奏功し人間との交友を結び,進歩した大型類人猿に躍進したと思われた.ジェニーを強力に野生へと圧し戻したのは,性への目覚めである.人間の少年を求愛対象とし,嫉妬に狂う行動は,理知的な認識の対極にあるものだった.ジェニーは,やはりどうあっても人間ではなかった――これほど単純な事実を,嫌というほど思い知らされる人間側の悔いとの悲しみは,取り返しのつかぬ混乱に見舞われたジェニーの無残さに比べれば,弁解の余地なく暗愚.

 強制的に野生に回帰させられるジェニーは,共感や相互理解といったモラリティを半端に残存させられつつ,人間社会から切り離される.自身が人間であると信じ込んでいた「彼女」にとって,それはいかなる意味をもっていたのか.グドールは,チンパンジー研究によって,人間と他の動物の間に明瞭に存在すると信じられていた境界が,実は不明瞭なものなのだと展望を述べたことがある.本書は,それに対する盲目的な賛同を戒める告発として読まれるべきである.

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Title: JENNIE

Author: Douglas J. Preston

ISBN: 4150408416

© 1997 早川書房