▼『ドロレス・クレイボーン』スティーヴン・キング

ドロレス・クレイボーン (文春文庫)

 そう,たしかにあたしは亭主を殺したさ…30年前に夫を殺したと噂される老女ドロレスに,再び殺人の容疑が.彼女の口から明かされる二つの死の真相―皆既日食の悪夢のような風景のなかに甦る忌まわしい秘密.罪が生み出す魂の闇.キングの緻密な筆がアメリカの女性の悲劇を余すところなく描き出す,慟哭の心理ミステリー――.

 963年7月20日,東部夏時間午後5時41分から45分にかけて,メイン州北西部ダーク・スコア・レイク-南東部リトル・トート・アイランド間を横断する皆既日食が見られた.この天体現象は,ニューイングランド北部では2016年まで見ることはできないものだった.

 ダーク・スコア・レイクとリトル・トート・アイランドは,直線距離にしておよそ140マイル離れており,これらの土地に接点は何一つない.この皆既日食をして初めて,2つの辺境の地が結びついたのである.ドロレス・セント・ジョージという名の3人の子持ちの女は,皆既日食の時間をある決意をもって迎えることになった.抜き差しならぬ理由から実行しなければならない計画を遂行した時,彼女は旧姓クレイボーンを再び名乗り,未亡人となった.彼女の計画とは夫を殺害することだったのである.

 29年後,雇い主であるヴェラ・ドノヴァン殺害の容疑をかけられたドロレスは,警察署で取調官に囲まれ供述を始める.自分が雇い主を手にかけるはずがないこと,そしてなぜ亭主を殺すに至ったかを吐露していく.それはまさしく,年月を経た今だから語ることのできる真実でもあった.ここから,ドロレス・クレイボーンの果てしなく長く感じられる独白が始まる.

 キング(Stephen King)の数ある著作の中で,特に秀逸といわれるわけではないが,本書には面白い試みがなされている.単行本で240ページ(文庫では357ページ)に及ぶ分量ながら,目次と章立てが一切存在しない.そして,文体は一人称の口語体で貫かれている.当然,語り手はドロレスである.この本は,老婆の語りだけで物語が幕を開け,一人称のまま完結する.冗長な老婆の話がいつ果てるともなく続き,脱線や無駄話も多々織り交ぜられながらも,話は徐々に核心部へ踏み込んでゆく.そのあまりにまわりくどい話法に,読者は忍耐を強いられる.

 しかし,この手法でなければ成しえない記述(口述)的描写があることを考えると,あながち乱暴な試みであると断じることはできない.キングにかかれば,どのような陳腐な設定であろうとも,生々しい描写によって読者は作品に引き込まれてしまう感覚を覚えるだろう.その意味では,必ずしもストーリーの奇異さや独創的な視点だけが作家の資質ではないのかもしれない.とはいえ,目新しいテーマでないものから抗いがたい魅力を作品から発することの方が,実際は幾数倍も困難だろう.

 陳腐さというのは,巻頭言にあるフロイト(Sigmund Freud)の「女は何を望んでいるか」という言葉にも読み取ることができる.ドロレスは,本来ならば普通の主婦であり,母親であったはずの女である.息つく間もなく延々と語る老婆の言葉は,異様な世界観を形成している.客観的な基準が存在しない世界は,主観のみで語られる言葉によって確立され,物語を支える基盤となっている.その妖美な雰囲気を感じさせる意図がキングにあったのだとすれば,それは確かに成功していると言わねばならない.

 2つの地名と皆既日食は,キングの架空の産物である.キングの作品はメイン州が舞台のものが多いが,「キャッスル・ロック」という地名が幾度も出てくる(スタンド・バイ・ミー,IT,ダーク・ハーフ等々).これに代表されるように,キングの作品の特徴は,実在するものと架空のものとを巧みに融和させて舞台に登場させるところにある.なぜドロレスの殺人と皆既日食をリンクさせたかの理由は,原書『DOLORES CLAIBORNE(1993)』が刊行された前年に出版された『GERALD'S GAME(1992)』を併読することで,紐解くことができる.

 ドロレスは皆既日食当時,メイン州南東部リトル・トート・アイランドにいた.時同じ頃,ジェシー・マハウトという名の少女が北西部ダーク・スコア・レイクにいた.地形の位置としても人間関係としても,全く顔を合わせることのない2人だったが,一瞬だけ互いに遭遇している.ドロレスは日食によって闇が降りてくる瞬間に,古井戸で夫を殺害した.その時,少女のビジョンがドロレスの前に現れる.すぐにその像は消え失せるが,ドロレスはその少女と不思議な因縁を感じたことを語っている.『GERALD'S GAME』においては,ジェシー・マハウトという中年女性が,一種の幻覚状態で少女時代のシーンを回想する場面がある.それは,日食で光を遮られた風景,ブラックベリーの茂みの中に古井戸があり,傍らに中年女性が佇んでいるシーンだった.

 皆既日食が起きた当時,ドロレスは中年の女性,そしてジェシーは年端もいかぬ少女だったのである.場と状況は違えど,2人ともそれぞれ恐怖の淵に立たされていた.皆既日食という天変地異が2人にスピリチュアルな体験をさせ,ドロレスの物語が『DOLORES CLAIBORNE』,ジェシーの物語が『GERALD'S GAME』という本において語られるという,いかにもキングらしい構成になっている.

 題名『GERALD'S GAME』は,ジェシーがジェラルド・バーリンゲームという名の男と結婚したことに由来する.したがって,ドロレスは旧姓,ジェシーは新姓を冠された物語の女主人公ということになる.また,彼女たちの属性をより多面的に比較すれば,対照的な条件を与えられた人物と分析することも可能である.それぞれの作品は独立した物語となっており,ストーリー上2人の女性が関連することはない.だが,キングの作品を読むのであれば,作者の遊び心に付き合い,光が失われた世界で瞬間的に現れ消えたもう1つの物語の主人公のビジョンを読み解き,パラレル的ストーリーを楽しむのも一興であろう.どちらの女性も数奇な運命を歩み,日食が落とした恐怖の深い闇から這い出してきたことには変わりはないのである.

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Title: DOLORES CLAIBORNE

Author: Stephen King

ISBN: 416714817X

© 1995 文藝春秋