▼『一房の葡萄』有島武郎

一房の葡萄 他四篇 (岩波文庫)

 有島武郎が生前に残した創作集は『一房の葡萄』ただ一冊である.挿絵と装丁を自ら手がけ,早く母を失った3人の愛児への献辞とともに表題作ほか3篇の童話が収めてある.童話とはいうものの,人生の真実が明暗ともに容赦なく書きこまれており,有島ならではの作となっている.ほかに「火事とポチ」を加えた――.

 蔵省の官吏であった父が横浜税関長を務めた時期,有島武郎は山手の横浜英和学校で学んだ.その時の体験を,「一房の葡萄」で童話化したといわれている.有島の児童文学は,児童中心主義の児童観が大勢を占めていた児童文学――北原白秋,野口雨情など――とは異なり,抒情性と子ども特有のエゴイズムの両面を備えたリアリズムが特徴.だが児童観が異端であったわけではない.白樺派の理想主義・人道主義個人主義の面からみた「児童中心主義」ということはできる.「一房の葡萄」は,「新約聖書ヨハネによる福音書」第15章から採られている.

あなたがたがわたしを選んだのではない.わたしがあなたがたを選んだのである.そして,あなたがたを立てた.それは,あなたがたが行って実をむすび,その実がいつまでも残るためであり,また,あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも,父が与えて下さるためである

 居留地における共同体に所属する思春期,という微妙な立場にある少年の心の動きを,有島は鮮やかな色彩感覚の中に示した.透き通るような海をキャンバスに描くには,ウルトラマリンやプルシアン・ブルーといった上等の絵具が不可欠と少年は信じていた.背の高い同級生ジムが所有している絵具を盗み出す少年への制裁,絶望に陥った彼を受け止める女性教師の慈愛.まっ白い掌に,粉のふいたむらさき色の葡萄が乗り,その房を銀色のはさみが真中から切断する.

 『生れ出づる悩み』で,有島は「愛の表現は惜しみなく与えるだろう.しかし愛の本体は惜しみなく奪うものだ」という言葉を残している.その前半部分は,2人の少年に葡萄を平等に分け与える教師の行いの詩的な美しさに通じるものがある.表題作ほか3篇の作品にも,ノスタルジックな情景が濃い.しかし,その1つひとつが,子どもがその主観の中で体感する恐怖,不安,エゴイズムが主題となっている.「童話集」と名付けられた有島唯一の単行本では,人生の真実を前に,立ちすくみもがき苦しむ脆弱な存在が,容赦なく描き出されている.1988年版の岩波文庫では,婦人雑誌『良婦之友』に掲載されていた「片輪者」が収録から除外された.視覚障害聴覚障害者の犯罪を扱っているため,偏見の助長を危惧してのことと思われる.

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原題: 一房の葡萄―他四篇

著者: 有島武郎

ISBN: 400310367x

© 1988 岩波書店