▼『ある明治人の記録』石光真人[編]

ある明治人の記録 改版 - 会津人柴五郎の遺書 (中公新書)

 明治維新に際し,朝敵の汚名を着せられた会津藩.降伏後,藩士下北半島の辺地に移封され,寒さと飢えの生活を強いられた.明治三十三年の義和団事件で,その沈着な行動により世界の賞讃を得た柴五郎は,会津藩士の子であり,会津落城に自刃した祖母,母,姉妹を偲びながら,維新の裏面史ともいうべき苦難の少年時代の思い出を遺した.『城下の人』で知られる編著者が,その記録を整理編集し,人とその時代を概観する――.

 辰戦争で薩長と戦って敗れた会津藩は,藩の消滅後再興を認められ陸奥の斗南(現在の青森県東部)に集団移住した旧会津藩士たちは約1万7,000人,石高3万石といわれたが,これは名目で実質は約7,000石で生活は貧窮を極めたという.本書の副題に「会津人柴五郎の遺書」とある.柴は10歳で戊辰戦争に遭い,西軍が城下へなだれ込む直前,母は「男子は生き延びて会津の汚名を天下にそそぐべし」と五郎少年を逃がした.祖母,母,姉妹らは「非戦闘員の女の籠城は兵糧を浪費する」と自刃,屋敷は焼失した.

落城後,俘虜となり,下北半島の火山灰地に移封されてのちは,着のみ着のまま,日々の糧にも窮し,伏するに褥なく,耕すに鍬なく,まこと乞食にも劣る有様にて,草の根を噛み,氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の年月,いつしか歴史の流れに消え失せて,いまは知る人もまれとなれり

 明治新政府の要職や陸海軍の要職には薩長出身者が多く占めた.挙藩流罪という史上類を見ない極刑にあえぐ少年と父は,極寒の斗南で犬の死肉を20日間食い続け,朝敵という汚名におしつぶされながら原野開拓で生き延びるほかなかった.炊いた粥――白米ではなく干した昆布やワカメ――は石のように凍り,履物はなく裸足で過ごす.熱病で40日苦しんでも,敷物などはない.想像を絶する苦難の怨みは,本書の書出し部分「血涙の辞」に篭められている.

 藩の選抜で青森県庁の給仕となったのを機に上京した柴は,旧藩士らを頼り士官学校を経て,軍事参議官,台湾軍司令官などを歴任し,陸軍大将まで昇進.1900年の義和団事件では駐在武官として2か月間のろう城戦を指揮し,適切な采配で,各国から勲章を授与されている.さらに,解放後に占領した北京での略奪を厳しく戒め,現地の保護にも尽力した.本書第1部「遺書」の最後は,竹橋事件の記述で,西南戦争と合わせて「維新に内在せる無理,摩擦,未熟,矛盾」に起因することを鋭く見抜いている.

 陸軍で栄達を遂げた柴は,65歳で退役し晩年は,会津出身者の支援の育英事業に力を注いだ.太平洋戦争の敗戦を告げる玉音放送の1か月後,身辺を整理し自決するが果たせず,その年の12月に世を去った.賊軍の小倅として苦難に耐え陸軍幼年学校でフランス式軍事教練を学び,中国通の陸軍軍人となり勇躍した柴五郎は,東北人のなかでも頑固で朴訥で最も保守的といわれる会津人気質を備えていたように見える.薩長幕閣政府,官僚独善政府を残して終わった明治維新は,東北に西南に深い傷跡を残す「革命」であった.そうした史実の間隙は,このような人物史によって埋めることが部分的に可能になるのであろう.

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原題: ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書

著者: 石光真人[編]

ISBN: 978-4-12-180252-1

© 2017 中央公論新社