■「愛のコリーダ」大島渚

In the Realm of the Senses (The Criterion Collection)

 昭和11年2月1日,東京は中野の料亭「吉田屋」に,30過ぎの女が,女中として住み込んだ.名は阿部定と言ったが,店では,加代と名付けられた.定は神田で繁昌している畳屋の末娘だったが,15歳の時に大学生に犯されて以来,不良となり,18歳で芸者に出され,以後娼妓,私娼,妾などの生活を転々としてきたのだった….

 画を“お上品”に嗜む保守派をのけぞらせた作品は,古今を探っても希少.その中で筆頭に挙げられる圧倒的プレゼンスを実現した映画である.「愛欲の果ての猟奇殺人」と喧伝された“阿部定事件”をモチーフとしながらも,作品は下劣どころか耽美の蘊奥を究めようとしている.その様式は,男女の燃え上がる情愛に衝かれて動因を与えられた「性」「嫉妬」を筵(むしろ)とし,愛憎の刺し合い(スペイン語<コリーダ>は闘牛の意)というものの究極形をこそ探求していると理解できよう.大島渚は「男と女の性愛への徹底した肯定」こそが作品の衝撃力を生み出したと語っている.これは1つの事件をモチーフにした作品ではなく,成立自体が「主題」の権化なのである.

 愛執にかけては,フランス映画の右に出るものはないと信じられた時代性に,真っ向から挑もうとした大島だが,ポルノ先進国アメリカでさえ本作の輸入に税関上の手続きを取った.それだけセンセーショナルであったわけだ.製作そのものも前例のない「奇計」が練られ実施されている.フランスのプロデューサー,アナトール・ドーマン(Anatole Dauman)率いるアルゴス・フィルムが製作投資を引き受け,"L'EMPIRE DES SENS"(官能の帝国)と仏題がつけられる.製作資金,フィルムはすべてフランスから輸出され,日本で撮影後,フィルムを未現像のままフランスへ「戻し」,編集と録音といったポストプロダクションを施して日本へ「逆輸入」することで,マスタリングと上映を可能にした.

 世界を瞠目させ,非難と絶賛を存分に浴びた本作は,取りも敢えず,陶然たる傾倒と猛然たる嫉妬を集めたということにほかならない.いたずらにハードコア論争を呼び起こそうとした映画でないことは,絢爛たる美術,しっとりと回る撮影が阿部定と吉蔵の間に発する官能美を如実にとらえ,強調し,増幅させ,鑑賞者の脳裏に刻み込むことからも明瞭.定と吉蔵の装束や佇まいだけではなく,盲愛に溺れこむ女の凄味に垣間見える可愛らしさ,それを悠揚と受け止める男の果てない包容力――それらは,藤竜也,松田暎子の才知の働きによるところが大.散髪を終えた吉蔵が背筋を丸めてよろよろと歩く路地裏に,響く軍靴の音と群衆の沈黙,日章旗

 雨の闇夜を,おどけながら戯れる2人が通行人にちょっかいを出す.篠突く雨音に負けずに響く,男女の哄笑.ねっとりとした定の声「吉つぁんは何度でも元気になるんだから」.人力車内で血濡れた指先に吉蔵「構やしねえよ」.数々の鮮烈な情景に,優劣はない.しかしいくつもの場面が,強烈な残像となって瞼の裏に棲んだような感覚を,鑑賞者にもたらす.性愛に寛容であるとされたフランス映画界のサポートなくして誕生し得なかった「コリーダ」だが,嫉妬と羨望,あるいは忌避の念を極致として収斂しうる域に到達したと信じる.その不滅性に,何度でも息を呑み,酔い続ける.

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原題: L'EMPIRE DES SENS

監督: 大島渚

104分/日本=フランス/1976年

© 1976 アルゴス・フィルム=オセアニック=大島渚プロ