▼『波の暦』水上勉

波の暦 (角川文庫 緑 256-32)

 実力派の人気女優,甲斐節子は,テレビ出演作品をきっかけに,その脚本家,香西尊彦と知り合う.とぎすまされた感性と寂しげな風貌に魅かれ,さらに彼の熱心な求愛もあって,恋愛,結婚へと急速に発展する.が,甘美な新婚生活も束の間,夫の言動に不審の影がみえる.やがて,明らかになる暗い過去,数々の疑惑.男との愛と破綻によって,ひとまわり大きく成長していく女性の心境を,隠岐の島,出雲,日本海沿いの自然を背景に,流麗に描いた大長編小説――.

 道湖と中海に囲まれた松江は,水の都である.知られざる景勝地も少なくない.その日本海沿いの自然の優雅さに反して,土着的な因習の縛りは厳しい.法勝寺の窯元,皆生温泉,出雲の名物築地松.折々の紀行描写と,謎めいた夫の姿を追う女性の千々に乱れる感情が織り成す所在無さが目立つ.寒村の厳しい体験を消化した水上勉が,そのような地を舞台地に選定した視点には,独特で内在的な根拠を思わせる.

「日本のジュネーブだといったのは,小泉八雲だったな」と香西は言った.「あしたゆく松江はもっといい所だ.米子は中海だけれど,宍道湖の水は深い色をしているね.風光もいいし.このあたりには,法勝寺焼ばかりじゃなくて,楽山焼,布志名焼,袖師焼なんてのもある.塗り物やメノウ細工に命をかけている古い伝統芸の人たちもいるんだよ.だがね……風光の美しくみえるのも,人が美しくみえるのも……みんな,われわれが旅人だからさ……住んでみると陰気なところだ.雨が多くて……」

 夫を慕う妻が直面する無常観は,夫の陰惨な過去を知ることで一層の深みに落ちていかざるを得ない.1964年から1965年まで『週刊新潮』に連載された「島へ」を塑像とする本書は,――1963年『飢餓海峡』を別格とすれば――『一休』『良寛』で見せた伝記もの,現実に起きた『金閣炎上』のような変事をロマン的文学に造作したものなど,それぞれ1970年代~1980年代に水上が確立した手法以前の作品とみることができる.

 風光明媚な出雲地方を舞台に,さらに物語のホット・スポットとなる漁村に執意を傾けた小説は珍しい.1960年代には水上は,運命論に挑む女性と,過去の出自をひた隠す男性の対照性をテーマとした作品群を生んでいる.構成の類似性からすれば,本書もその群に加えるべきであるが,北陸,京都を中心に設定された『五番町夕霧楼』『越前竹人形』などと比べ,出雲の一集落という舞台はやはり異色である.

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: 波の暦

著者: 水上勉

ISBN: 4041256321

© 1985 角川書店