▼『「水」戦争の世紀』モード・バーロウ,トニー・クラーク

「水」戦争の世紀 (集英社新書)

 いまや石油よりも貴重な天然資源となった水は,グローバル企業や世界銀行IMFなどにより,巨大なビジネスチャンスの対象とされ,独占されつつあるのだ.今,生きるための絶対条件である水を得られない人びとが,大幅に増えている.地球のすべての生命体の共有財産である淡水資源が枯渇すれば,人類の未来はない.世界の「水」をめぐる衝撃の実態を明らかにし,その保全と再生のための方途をさぐる必読の書――.

 と安全は無料で手に入ると信じてきた.特に降水量に恵まれた島国である日本は,国をまたぐ国際流域というものが存在しないのだから無理もない.ところが,国際的に認められているだけで,国際流域となっている河川や湖沼の数は,280にも上る.国家が排他的に支配する水域をめぐる闘争は,人類の歴史と同時進行してきたはずだ.紀元前2500年にはルガシュとウンマチグリス川の灌漑権を奪い合い,50年に亘り戦闘してきたし,黄河揚子江,准河,海河と4つの大河が流れ,日本と同様に水量が豊富だとイメージされがちな中国でも,川の水が下流まで届かずに途絶えてしまう「断流」に1990年代以降,悩まされている.

 水を巡る国際紛争は,水の絶対利用量を下回る配分に国家が承服しない場合に引き起こされる.チグリス・ユーフラテス川はトルコ,イラン,シリア,イラクを貫いて流れているが,それぞれの国家の思惑で紛争は絶えず続く.この事実は,水源が国力の源として譲歩できない「資源」であることを物語っている.かつてサッダーム・フセイン(Saddam Hussein)は,水をイラク国内に配分するチャンネルを構築し,トルコのダム建設に反対し「ダムを破壊する」とまで宣言していた.水脈にまつわる安全保障(ウォーターセキュリティ)が国家安全保障に直結していることが理解できるだろう.河川は英語で“river”というけれども,その語源はラテン語の“rivalis”,すなわち「ライバル」(競争相手)を意味するとされている.打ち倒すべき相手との勝敗を決した場合の報酬が淡水だったということだ.

 本書は,「水の民営化」(水に値段をつける水道事業)こそが「淡水危機」を招く,と警告する.IMO(世界気象機関)によれば,地球に存在する水の量はおよそ14億m3.97.5%は海水,淡水は2.5%である.しかし,淡水の99.2%は北極と南極の氷として存在し,残り0.8%のほとんどは地下水となっている.そのような地下水にアクセスできるのは,発達した「文明力」を保有する国だけである.そして,より一層重要なことは,国際流域に居住する人々が世界人口の60%を占め,陸地面積の47%が国際流域に属するということだ.開発途上国ではミルクを溶く清潔な水が入手できないため,多数の赤ん坊が汚染された水を飲まされ,さらにはミルクの代わりにコカ・コーラを飲まされる.ユニセフも認める現実だ.2002年にコフィー・アナン(Kofi Atta Annan)国連事務総長(当時)は,ガーナの首都アクラでの演説で「水なくして未来はない」と宣言した.淡水は保護されるべき資源であり,人間の生存する権利としても,環境保護の義務としても,淡水の使用を公的・国際的に保障されなければならない理念の表明ともいえるだろう.

淡水は地球と全生物種のものであり,個人の利益のために水を使う権利は誰にもない,と私たちは信じる.世界遺産の一部である水を,社会の「コモンズ」として保護し,各国内の条例や法律,国際法によって守るべきなのだ.…中略…コモンズを通して私たちは人類愛に目覚め,子孫のために保護すべき天然資源があることに気づくのである

 ワシントンに拠点を置く国際経済研究所(IIE)のジョン・ウィリアムソン(John Williamson)が1990年に作った言葉「ワシントン合意」は,あらゆる「コモンズ」(共有財産)を商品化し,消費財を大量生産して大量に売りさばく,自由市場体制を特徴とする経済イデオロギーである.その根底にはあるのは,資本の利益が国民の権利に優越し,企業の権利が国民の権利を凌ぐ規制緩和を正当化するものだった.ワシントン合意による原則に,聖域はない.医療も食料も,天然資源も社会福祉も,あらゆるコモンズが商品価値に換算される.世界的に不足する「水」すらも,コングロマリット企業IMF世界銀行にとっては投資対象となった.彼らは水の面から富の偏在を拡大し,限られた地下水脈を独占する.

 典型例は,ミネラルウォーターのヴィッテルコントレックスなどのブランドで知られるネスレ(スイス)である.世界80カ国以上の水源を買い占めており,ミシガン州では水源の枯渇を危惧した住民がネスレに対し訴訟を起こした.また,フランスのスエズビベンディ,イギリスのテームズ・ウォーターが巨大な水道事業を手がけ,この三社だけでなんと世界の80%の水道事業を牛耳っているという.水道事業を民営化すれば,サービスの向上に同分野の企業は躍起となる.優れたサービスを提供する企業だけが生き残り,そうでない企業は淘汰される.さらに,水に料金がかかることから利用者も水を大切に消費することになるから望ましい,というのが彼らの論理であり,世界銀行も企業に資金を調達し,上下水道事業の民営化を強く推す.この構図に歪みはないのだろうか.

 水が人の生命に不可欠な「資源」だとして,それが人間の基本的「ニーズ」なのか,それとも基本的「人権」なのかは,重要な論争のポイントである.国民の水へのアクセスに責任を持つのは,国家(公的)か個人(市場)なのかを決定する核心に迫るものだからである.権利は保障されなければ「侵害」となるが,ニーズに侵害はない.ただ需要にアクセスできず,実現されないというだけである.2000年にオランダのハーグで行われた「世界水フォーラム」では,政府代表がフォーラムのスポンサーである企業側の主張を尊重し,水は「基本的なニーズである」と閣僚と官僚は宣言した.これが水の利用と保有に関する公式イデオロギーとなり,水の利用は万人の権利ではないことが公的に確認され,支払い能力のある土地に清潔な水は集中することになった.つまり,高い所から低い所へと水は流れる.そして資本もまた高い所より低い所に集まり,結局,きれいな水は資本におびきだされて配分されていくのである.

 淡水に不自由しないと信じられてきた日本にとっても,水の危機と無縁ではいられない.確かに,この国の年間降雨量は1700-1800mmで,世界平均のおよそ2倍だ.梅雨と台風が水不足を解消してくれ,何の不安もないように思える.しかし,工業製品,農産物,畜産物の生産には膨大な水が必要である.牛丼1杯分の材料となる米と牛肉を生産するには,約2トンの水が必要であるし,1台の車を作るには40万リットル消費する.1トンの穀物生産のために1,000トンの水が消える.言い換えれば,水の大量消費のうえにこれらの製品は成り立つ.

 ロンドン大学教授のトニー・アラン(Tony Allan)は,バーチャル・ウォーター(仮想水)の概念を1998年に提示した.「水資源の乏しい中東で水争いが起きないのは,食料輸入を通じて大量の水を輸入し,自国の水を使わずに済むからである」と指摘し,食料に託されて中東では他国の水を輸入しているという,食料の観点からバーチャルな水を構想したのである.これはきわめて画期的な発想だった.日本水フォーラムでは,このバーチャル・ウォーターの概念を援用して日本の水の「輸入量」を計算した.すると,食料自給率40%を切る日本では,穀物,肉類,衣料,木材の多くを輸入に頼っており,これらの生産物の生産の過程で消費されている水は,途上国12億人が必要としている水の量に匹敵するという結果を得たのであった.

そう遠くない昔,自然と生命には市場で売買される商品と同一視できない何かがあると思われていた.売り物にすべきでないものがあったのだ.天然資源(空気と水を含む),遺伝子コード,種子,健康,教育,文化,伝統などだ.ほかにも自然と生命に欠かせぬものが人類共通の遺産または権利の一部となっていた.つまり「コモンズ」である

 南アフリカのドルフィン・コーストでは,1998年に水道事業を民営化した結果,4年間で水道料金は140%に高騰した.貧しい農民たちは料金が払えず,汚染の進んだ川や湖の水を飲用せざるを得なかった.その結果,2002年には25万人以上の国民がコレラに感染し,多数の死者を出した.生存と健康の必需品である「コモンズ」を,際限なく利益追求していく民間セクターに晒すとどうなるかという帰結は,すでに現われている.水源があまねく国々に網羅されることが不可能な以上,この資源を公正に,効率的に分配する叡智が求められていることを様々な現実は示す.淡水が経済戦略として取引されることは,平等性に反して安全な生命活動を購入しているということになる.

 商品価値が無限に高まるコモンズの次の標的は明らかだろう.食料でも土地でもない.清浄な空気である.クリーンな上空の下に高度文明の国々が占拠し,ガスやスモッグに毒され汚れた空気に覆われた不浄な街が隔離されるという,SFでよく見られる光景である.これを一笑に付すことができるだろうか.「水」が権利ではなくニーズだと位置づけられたなら,「空気」が同じ末路を辿らないと果たして断定できるだろうか.

++++++++++++++++++++++++++++++

Title: BLUE GOLD

Author: Maude Barlow, Tony Clarke

ISBN: 4087202186

© 2003 集英社