▼『ピエールとリュース』ロマン・ロラン

ピエールとリュース

 第一次世界大戦下のパリ,ドイツ軍の空爆のなか,地下鉄で出会った二人.召集をうけていた良家の息子ピエールと,生活費を稼ぐための絵を画くリュースが,結ばれることは困難であると自覚しながらも想いを募らせる.『ジャン・クリストフ』『魅せられたる魂』を執筆し,ノーベル文学賞を受賞したロマン・ロランによる,平和への願いが込められたうるわしい二ヶ月の恋物語――.

 ュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig)によって「愛の牧歌」と紹介されたこの中篇は,「1918年1月30日水曜の晩から3月29日聖金曜日までの物語」.若い男女(ピエールとリュース)の出会いは,地下鉄の中でもたらされた.1918年1月30日は,フランス爆撃が開始された日だが,本書では「戦争」という言葉で説明されていない.

 1917年の2月革命をきっかけに,ロマン・ロラン(Romain Rolland)はソヴィエトに共感を寄せるようになっていく.第一次大戦のもとに生まれた反戦文学,それが『ピエールとリュース』であり,空襲に脅かされるパリの街で惹かれあう若い男女には,清廉で純化された恋愛が結晶している.その美しさ,可憐さが気高い人間性を恒久的に示している,とツヴァイクは解釈した.ただし,結晶しているのは彼らの恋愛においてであり,それ以上でもそれ以下でもない.

 寿岳しづの兄は,大学に入って突然,失明した.死の誘惑を断ち切ろうと苦しむ兄を見ながら,寿岳は『ジャン・クリストフ』を読んだという.「死ね,そして成れ!この真理をわがものとしなう限り,君は暗い地上をさまよう陰気な客にすぎまい」……ゲーテJohann Wolfgang von Goethe)のこの詩句こそが,ロランの大著を貫くテーマであると彼女は感じた.ロランの関心は,人間存在の未来ということだった.彼はしばしば,それを「良心」にまつわる物語として,瞑想小説(ロマン・メディタション)と呼んで,ロマネスクな作品の背骨に据えることにしていた.

 本書は,1918年6月ごろに書かれ,1920年に出された.同時期に出された作品に,『クレランボー』がある.善良な作家,クレランボーが大衆に迎合して熱烈なナショナリズムを歓迎するが,愛息マクシムは,悩んだ末,父に静かに問いかける.「そんなことを本当に信じているのですか」.マクシムが戦死した後,クレランボーの真の苦しみは始まる.皮肉なことに,狂信的な国家主義者の凶弾によりクレランボーは絶命するが,彼の理解した極地は,一個の人間の持ちうる良心の存在についての涅槃であった.

 「自由な良心」に熱狂し,それは詭弁と戦う刃ともなった.しかし,愛への演説に対しては嘲笑と欺瞞が対抗する.大きな拒否の原理,それは共同社会(国家)に傾倒するコミュニズムに対抗する市民の権利である.大義名分の理想がヨーロッパに拡大することへの懸念とその誤りを断罪しながら,人間の精神性を高らかに謳いあげている.

真に人間である人は,万人のなかでもひとりでありうること,万人のためにひとりで考え――そして必要な場合には,万人に反対して考えうることを学び知るべきである.…中略…人類を愛する人々が,必要な場合には,人類に抵抗し,叛逆するということが人類にとっても必要である *1

 ピエールとリュースは,手をたずさえてパリの中心,サン・ジェルヴェ教会で悲劇的に人生を終わらせた.ロランは,架空の2人を歴史的事実に投影することで力強く,その事実を断罪することを躊躇しない.事実の経過は物語のとおりである.

 1918年3月29日の聖金曜日の午後,ドイツ軍の長距離砲の砲弾がジェルヴェ教会を直撃した.それで165名の犠牲者を出したが,その大部分は礼拝に集まっていた非戦闘員の市民(子ども,老人,婦人ら)であった.この惨事にロランは憤り,ピエールとリュースを現場に同席させ,人生を終焉させることによって若い2人の希望を打ち砕いた.戦争という暗黒の翼とともに,ロラン自身の筆から放たれる決意として.

 ロランは観念的な平和論者ではなかった.ソヴィエトの社会主義に親和的で,ウラジーミル・レーニン(Владимир Ильич Ленин)にロシア行きを要請されたことすらあったが,他方『クレランボー』で訴えたように,国家の奉仕者になる国民の過ちが,文明の偽善として展開されることになると見抜いていた.たとえば,山口三夫は,ロランの政治的活動面に着目して,それでもロランはヒューマニストであったことを看破した.

今世紀最初の典型的な帝国主義戦争である南アフリカのブール戦争(1898-1902)にさいして,『時は来たらん』によって「文明」そのものを告発しようとこころみながら,いわゆる政治的であることをみずからに拒否していたロランが,ブール人独立のための委員会に名を連ねていた事実…中略…シャルル・ペギーの「カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌ」による社会的政治的不正告発者のグループにぞくし,また『クリストフ』のごとき文芸作品においてすら来るべき独仏戦争に警告を発し続けていた *2

  ロランの思想は,反戦というより厭戦といったほうがふさわしい.平和の道を模索する彼の視点は,非暴力を抵抗とする東洋の教条に向かった.アーナンダ・クーマラスワミ(Ananda Coomaraswamy)の論集『シヴァの踊り』でロランが言及したのは,人間と宇宙の精神の調和,ユニテ(unite)ということだった.東洋の思想は,静かに行動を起こすべきことを,平和への根本原理のヴィジョンとして確かに備えているように思えたのだ.

 マハトマ・ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi),ラヴィーンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)との交流から生まれた『マハトマ・ガンジー』(1923年)と『ラーマクリシュナの生涯』『ヴィヴェカーナンダの生涯と世界的福音』(1928-1929年)は,ヨーロッパに初めてインド学をもたらすきっかけになる.東洋の行動的思索は,ロランにとって,ヨーロッパの「自由な良心」を打破する静謐な瞑想となったのである.

 ガンジーはインド独立に貢献した「偉大な魂」,インド共和国の国歌「ジャナ・ガナ・マナ」を作曲したタゴールは,「師」とそれぞれインドでは尊称されている.インドの運命を担う者,インド国民の心の統合を歌う国歌は,自発的な啓蒙を国民に促すものであり,ファシズムの台頭から連想される全体主義とはやや異なっている.

 ロランには,手紙にまつわる2つのエピソードが残されている.彼の人間に対する良心の表出のしかたが伺われる逸話ともいえる.それを振り返っておくのも,意味のないことではないだろう.

 ロマンが14歳を過ぎたころ,ロラン一家はブルゴーニュ地方のクラムシーという田舎から,大都会パリに移住した.そこで名門の高等師範学校,エコール・ノルマルに入学するのだが,ロランは歴史科学を主に学ぶことになった.学生全員が寮生活を送ることになっていた.

 寮の部屋割りは,学生の自治に任されていた.入寮する学生の部屋割りがすべて決まったころ,シュアレスという名の学生が遅れてその場にやってきた.シュアレスは,入学前から評判の秀才だった.そのシュアレスの部屋だが,みんなは同室するのを嫌がって彼を受け入れる者は誰もいなかった.なぜなら,シュアレスはユダヤ人で,優秀なユダヤ人に対する嫉妬と差別意識が学生の間にも広まっていたからだった.

 ルームメイトを進んで引き受けたのが,ロランだった.シュアレスはロランに感謝し,音楽,文学,演劇,さまざまな方面にわたって刺激を与え合った.ところが,陰湿な生徒たちはシュアレスを陥れるため,悪意の画策をめぐらし,学校から排除を試みる.ユダヤ人と仲がよいという理由で,ロランもその標的になっていった.

 “嘲る者には勝手にさせておけ!”

 ロランは,ある時,落ち込んでいた,この友に,長い手紙を書き送って励ましている.

 「ぼくたちの存在を幅広くしうるものすべてを吸収しようではないか.そうすればそれだけ,ぼくたちの不滅性を拡大することになるのだ」

 「他の人たちは,彼らがそうしたいなら,ぼくたちを嘲るがいい!」

 「僕たちは彼らを軽蔑する」

 「まっしぐらにぼくたちの道を行こうではないか」*3

 ロランとシュアレスの交友は,師範学校の時代だけでなく,一生続いた.

 またロランが21歳のときだ.芸術と人生に苦しみを舐めさせられた若き青年は,文豪レフ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой)に長文の手紙を書いた.返事などもらえないことは,初めから承知していた.ところが,トルストイはこの無名の青年に対して,便箋38ページにものぼる返信の手紙をよこした.ロランはこれに仰天し,非常な感激に包まれた.

 トルストイは,手紙で「人間にとっての美,善とは人間を結合させること」であると述べ,そして「人間の知ることができ,また知らなければならない学問のなかで最も重要なのは,できるだけ悪を少なくし,できるだけ善を多くするように生きるための,学問です」と書いていた.ロランは,トルストイを生涯の師と仰いだ.名を広く知られるようになってからも,自分に寄せられた手紙については,魂をこめて返信することを信条としたのである.特に,良心の問いかけに対して,自己を偽ることなくそれをやり続けたという.

 しばしば「牧歌的な愛の物語」とされる本書だが,清廉な若者の背後には,常に大戦と死の影がうごめいていた.2人が出会った日には,初めての爆撃を受けた本土で血まみれの負傷者が倒れこんだ.ピエールはそのことをずっと忘れず,小鳥のさえずりのようなリュースとの語らいのなかで自覚していたことがある.

「……菩提樹の暖かな樹陰,梢のあいだの太陽,歌う蜜蜂……」

「……樹しょうに実った桃と,香りの高いその肉……」

「……収穫をする人たちの午睡や彼らの金色の束……」

「……牧場で反芻している,怠惰な家畜の群れ……」

 夢うつつのような甘い言葉を囁きあいながら,ピエールは厭世主義から,リュースは愛情の深さから結婚が実際的に不可能だということを知っていた.中産階級とそれ以下の階級にそれぞれ生まれながら,正常な時代であれば結婚を意識する関係を育んでいく.ピエールとリュースは,若々しい愛情をほとばしらせながら,かがやく生命力を持ちながら,時代を拒絶して石柱に押しつぶされていった.もちろん,そういう見方もできるだろう.けれど,実は時代が巨大な拒絶を彼らに突きつけ,若い2人の内的生命のすべてを葬り去ったと解釈することもできる.

 ユニテは壮大な概念だった.既存の社会科学でも,人文科学でもその手に余る.その有機的な「まとまり」は民衆のうちに「生きる力」をたぎらせ,ユニバーサルな思想と行動体系を現実のものにすると思われた.ロランは,純潔な愛のトートロジーを続けさせながら,ピエールとリュースに人生の選択肢を与えなかった.現実の空爆に空想上の彼らを巻き込んで,人間のあり続ける証明をたやすく破壊できる憎むべきものを,明言することなく厳しく断罪しているのである.それは「よき良心」を否定し解体するものへの拒絶ということだった.

 小作品である本書は,ロランのほかの大著に圧されて脚光を浴びることは少ないだろう.だが,本書が執筆された時代は,全体主義が支配的な時代である.それが欧の東西を問わず展開されていった時期であることに留意する必要がある.ロラン特有の視野の広さから,かつてガンジーレーニンの合一を図ろうとさえした思想に支えられた,瞑想小説だ.そのことを人文科学の検討が十分になされていない,あらゆる時代に通ずるカンタータが聞こえてくる.しかし,それを聴くには,よほど耳を澄ませていることがわれわれに求められる.

++++++++++++++++++++++++++++++

Title: PIERRE ET LUCE

Author: Rolland, Romain

ISBN: 4622072238

© 2006 みすず書房

*1 みすず書房(1985)『ロマン・ロラン全集』43巻,ロマン・ロラン,p.420

*2 弥生書房(1997)『ロマン・ロランの言葉』ロマン・ロラン ; 山口三夫訳編,p.200

*3 http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/romanroran.htm