▼『にんじん』ジュール・ルナール

にんじん (角川文庫)

 「にんじん」――ルピック夫人は末の男の子をそう呼ぶ.髪の毛は赤く,顔はそばかすだらけだから.にんじんは,部屋の片隅にうずくまりながら,家族のために役立つ機会を待ちぶせしている.が,母親の口汚いののしりと邪険な態度が,そんな彼の気持ちを打ち砕く.愛に飢え,愛を求めながら,母親のあまりの反応のなさに悩み傷つく少年の姿を生き生きと描き,読者の感涙を誘う不朽の名作――.

 どもを見れば,その家庭の姿が窺い知れるというものだ.親は子の鑑であると同時に,子は家庭の姿を映し出す鑑なのである.そして,心のよりどころとなるべき家庭から不当な扱いを受けている子どもがいるとすれば,その子にとっての安全基地は,何ものかによって奪われているとみなければならない.その外敵ならぬ内敵と毎日対峙しなければならない子どもの悲嘆は,彼にとって絶望的なものであることだろう.母親の口汚い痛罵に耐え,自分の失敗を面白がって笑いものにする機会を常に窺うきょうだいに隙をみせぬよう注意を払い,何事にも眉をしかめるだけで無言な父親に助けを求めても詮はない.それを知りながら,自分の価値を否定され続ける状況をしのぐ日々.そのような日常に子どもは何を思いどう過ごしているのか.世界を眺める子どもの目はどういったものなのか.

 ジュール・ルナール(Jules Renard)は,もともと文学活動の表現を詩に求めた.本書の平易な読みやすさの理由は,長文を彼が嫌うためセンテンスの一つ一つが短文で構成されているためである.詩を志したにせよ,ルナールは日記に「短い文章が好きだから,詩の一行だけでも,すでに長すぎるように思える」と記したことがある.フランスの普通の詩の形式でいえば,およそ十音,アレクサンドラン形式であれば二十音であるという.それすら長すぎる,というのだから,小説で長々と文章を書くことには興味がないというのも納得がいく.ルナールの文名は『にんじん』により確たるものとなったが,彼の作品はそれ以外でも小さなスケールでまとまったものが多い.いわば小品ともいえるスケッチ風,コント風などの類である.けれども,これはその作品の卑小さを示すものでは決してない.たとえば,ルナールの友人,レオン・ドーデ(Léon Daudet)はルナールの作品に賛辞を惜しまなかったが,それは作品のスケールの小ささに比して作品の奥行きとして広がる宇宙の深遠さを認めるものだった.

ジュール・ルナールがわれわれを惹きつけるのは,これらの小さな姿が,やがて完全な1つの姿になり,これらの草の小徑が遂には坦々たる大道に導くという予感があるからである.遂に発芽の時が来る.そして遂に豊かな1つの存在が現れるのである.すべてはその準備にすぎなかったのだ *1

 小さな姿が豊かな存在を導くとはどういうことか.『にんじん』を例にとるならば,それは家庭内の子どもが程度の差こそあれ,子どもは不条理な疎外感にさいなまれているということであり,しかし家族からうすのろ扱いされる“にんじん”が実は意外にも知性と計算高さをもっているが,やはり大人との対立関係においては歯が立たない,という抵抗の中にある脆さである.これは全ての子どもにあてはまる.“にんじん”と呼ばれる子は例外的な特性をもった児童ではなく,むしろありふれた無邪気さ,残酷さ,狡さをもった普通の子と解釈するほうが自然である.これは虐待にさらされる単なるかわいそうな子の物語ではない.ちいさな体で壮絶に抵抗を試みたいと願いながらも,微々たる形でしかそれを表現することはかなわずに,いずれ来る自己変革の時期を待ち続ける男児の,自己を貫こうとする生き方の物語である.この意味で,日本に積極的にルナールを紹介し,『にんじん』に惚れ込んだ岸田國士の「子供を甘く見るな」というメッセージが一言でいえば本書の主張である,という理解は正鵠を射ている.サマセット・モーム(William Somerset Maugham)がルナールを評して「想像力の乏しい人間だ」と指摘したことは無視できないが,安易に同意することもまたできない.

 この物語は,ルナール自身の幼少時の家庭環境をかなり再現したものであると一般に理解されている.ルナールはいわゆる大作家というのではないが,フランス近代の個性的な作家であることは間違いなく,子どもの目に宿らせた観察力と微妙な自意識のニュアンスが,悲喜劇を醸し出す作風を形成した.ルナールの父親,フランソワ・ルナール(Francois Renard)はショーモ・レ・ミーヌの村長まで務めた人物であるが(後年,ルナール自身も同じ村長の任を務めた),厳格で気難しい人柄だったことが伝えられている.12歳年下の金物屋の娘,アンヌ・ローザ=コラン(unknown)とフランソワが結婚したのは1854年,それぞれ30歳,18歳の時である.長女,長男の次にジュールが生まれるのだが,そのころには既に夫婦仲は冷え切っていた.ルナールの著作『わらじむし』第一部六節に,両親に対する冷やかなルナールの考察が加えられている.

寡黙で思慮深い彼が結婚した妻は軽率でお喋りな女だった.倹約家の彼が選んだ女は浪費家だった.いつも自分の殻にとじこもって,ちょっとのことですぐ感動したり,針小棒大に人を攻撃したりするのを毛嫌いする彼も,これまで妻を愛してきていた.彼女をいつか改造できると期待していたのだ.…中略…しかし彼はある人間と付き合っていて「もううんざりだ」と言いたくなるようなあの疲労をつくづく感じた *2

 フランソワは家ではほとんど口を利かず,妻に用があるときは居間の石板に伝言を残すだけだったという.アンヌは逆に口数が多く,夫との会話がないぶん近所の婦人たちと噂話にふけり,自分の3人の子には口やかましかった.とすれば,ルナールも上の兄と姉と同じく愛情を与えられたはずなのだが,実際にはそうではなかった.ルナールの少年時代の追憶が『にんじん』には投影される.隔絶された夫婦関係の間に生まれた第3子よりも,長男長女へとアンヌの愛情は向かったのである.それは,無理解と嫌悪を示す夫の態度に報いる妻としての態度であって,その犠牲となる3番目の子の心情や将来に配慮するものではなかった.しかし,本書はルナールの自伝の形を取ってはいない.家族構成と家族の風景が物語に似通っているにせよ,家族内の対立が皮肉を交えて淡々と綴られていく.エピソード「思わぬ事件」には,夫婦の対立関係が子どもをいかに巻き込んでいくものかが直接的に明示されるが,そこに感傷の匂いがいささかもないのには感心した.親への恨みに引きずられたならば,これほど淡々と物語の描写に徹することなどできない.

 本書の眼目は,愛の結晶とされるべき子どもを愛でるか否かはその家庭事情に委ねられており,その意味で子どもに責任はない,ゆえにどのような形での折檻(虐待とも言い換えられるが)も子どもにとっては不条理なものだ,と家庭内の子どもの立場を告発する意味がある.一方では,子ども自身の持つ本来的な生命力への敬意がある.いかに親につらく当たられ,うなだれてとぼとぼ歩くにんじんでも,ひとたび親の目を離れ自分だけの世界に飛び込むことができれば,たちまちまばゆいばかりの光をもって思うがままに飛翔する.その威厳は,時ににんじんのもつ残酷さや狡さ,醜さをも交えながら描写されていく.ここに本来の子どもの姿がある.ルナールは,本書を出版した1894年の11月12日に,次のように書いた.そして本書は,ルナールの長男と長女(通称・ファンテックとバイイ)に捧げられた.

『にんじん』.以下の銘を刻むこと.

「父親と母親はその子どもにたいしてすべての義務がある.子供は彼らに何の義務もない」*3

 肉親憎悪の傷つけあい,反目を続ける家族内緊張関係は,家族が血の繋がりに縛られる限り断たれることはない.そのことの悲哀と宿命を,ルナールはいわば等身大の姿で家族像を形成したのだった.ルナールの父,フランソワは死の病に冒され絶望の余り猟銃自殺を遂げ,その12年後には母,アンヌが井戸に転落して死亡した.これにも自殺の疑いがある.こうした両親の異常な死に様に衝撃を受けたルナールは,母親の死の翌年(1910),46歳という若さでパリにて病死した.ルナールの死生観の動揺と同じかたちで死生観を常に自らに突きつけ続けた芥川龍之介は,ルナールを高く評価したことでも知られている.ある意味では人生をルナールと同一視していたように思える芥川だが,『侏儒の言葉』(1927)で「人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている」と書いた.おそらく,ルナールもこれに異議を唱えることはないだろう.

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Title: POIL DE CAROTTE

Author: Jules Renard

ISBN: 4042214010

© 1992 角川書店

*1 岸田國士;岩田豊雄[ほか]編(1954-1955)『岸田國士全集 五』新潮社,p.399

*2 柏木隆雄(1999)『イメージの狩人』臨川書店,p.17

*3 柏木隆雄,前掲書,p.172