▼『フォーカス スクープの裏側』フォーカス編集部

フォーカス スクープの裏側

 FOCUS創刊前,盗撮カメラマンのテクニックは「粘る」ことだけだった.81年,FOCUSの登場によって,盗撮技術は革命的な変化をとげる.追跡,モニター監視,無線機,そして隠しカメラ….数多くの政治家,財界人,芸能人がカメラマンのターゲットになり,「フォーカスされる」という流行語まで生まれた.休刊のいま,写真を武器に,権力に果敢に立ち向かったFOCUS20年の内幕をすべて明かす――.

 0年の歴史を誇る写真週刊誌が「休刊」を宣言した.1981年の創刊から数えて,ちょうど1001号にあたる.これは事実上の「廃刊」を意味しており,今後も復刊はないだろう.ただ,泡沫のごとく浮かんでは消える週刊誌業界にあって,『FOCUS』の名はある種の栄光を放ち続けている.それはなぜか.「フォーカスする」と動詞的表現すら生んだ力のある雑誌がなぜ,死ななければならなかったのか.

 『フォーカス』の事実上の廃刊について,当時の新潮社取締役松田宏は,「フォーカス的現象」と,称賛とも揶揄とも取れる社会的反響をこの雑誌が獲得してきたことに触れながら,最盛期には200万部あった部数も,実販売部数は10万部台(公式には40万部台と発表)にまで落ち込んだこと,それによる収益の回復の見込みはないことが廃刊の理由と述べた.これは表向きの理由だった.実際には,当時の新潮社は,数々の訴訟と損害賠償に悩まされていた.1年間で19件の敗訴,損害賠償額は6,000万円にものぼった.その典型例が,2000年の「熊本保険金疑惑報道」に関する一連の訴訟だった.

 この事件は,熊本県で4人が死亡する交通事故の保険金をめぐる事件で,保険総額が50億円にものぼり,一般の交通事故ではおそらく世界一の額だろうともっぱらの評判であった.当時の『フォーカス』編集長山本伊吾は,事件の概要を部下の記者から耳にすると,「金額そのものにニュース価値がある.記者としてそれに気がついていないのは駄目だ」として,即座に取材に向かわせた.12週間にもわたり,『フォーカス』はこの事件を追い続けた.新潮社以外の雑誌『文藝春秋』も続いたが,重要な事実関係の裏づけを取っていないことが明らかになり,累々たる敗訴の山を築いた.

 『フォーカス』が休刊を宣言したのは,それから1年後のことだった.編集部の指示で進められた「熊本保険金疑惑報道」に『フォーカス』が先鞭をつけた格好となり,賠償金は3,000万円を超えた.すでに赤字のそしりを受けていた『フォーカス』にとって,この事件は「無責任としかいいようのない取材体制」「売れるなら何を書いてもいいという身勝手な編集方針」と痛烈に批判された.言い換えれば,『フォーカス』という雑誌の体制面の脆さが露呈されたと世論は判断したのであり,大衆的支持がなければ存続できない週刊誌という面からすれば,これは致命的なことだった.

 本書は,2001年8月15・22日の『フォーカス』最終号を世に出した2ヵ月後,20年にわたる取材活動をまとめて出版された.20本の代表的なスクープを取り上げ,その総決算を図っている.そこには,かつて200万部を売り上げた空前絶後の写真週刊誌,という自負があますところなく主張されている.20年間の累計部数は,7億1,886万5,685部.その間,いくつかの転機を迎え,乗り越えながら『フォーカス』は写真週刊誌としての地位を不動のものにしていく.そのタイミングをいくつかの写真で象徴される「時代」を振り返ってみよう.

 はじめに大きく注目を集めたのは,何といっても1982年2月の第7号,トップを飾った「ホテル・ニュージャパン火災」であっただろう.この件は『フォーカス』が初めて取り組んだ「突発モノ」だった.

突発モノとは,火災や事故,災害といった,いつ来るかわからないニュースネタのことだ.…中略…事件や張り込みはある程度の準備や体制づくりができるが,“突発モノ”は,それができない *1

 「とにかく新聞とは違うものを」――『フォーカス』のフォトジャーナリズムは,初めての突発モノをまさに「モノ」にしたことにより,胎動を始めた.死亡確認のために被災者の瞳孔反射を検査するペンライトの光,それだけではカメラのフラッシュをたくしかない.かといって,ストロボの光は撮影を物語ってしまう.そうと知れれば,フィルムを取り上げられてしまうだろう.その矢先,突然テレビクルーがライトを当てた.瞬間を逃さず,編集部のカメラマンはシャッターを押した.

 スクープとして誌面に採用される写真は,テレビや新聞で流された,「逃げ惑う聴衆」ではいけなかった.よりインパクトのある写真でこそ,写真週刊誌の本分は果たされるということに,編集部はいち早く気づき始めた.そうはいっても,容易に発行部数は伸びるわけではなく,編集サイドは新たなニュースソースを捜し求めていた.それも,決定的なインパクトを持つものでなければ意味がない.最低40万部.それが,『フォーカス』赤字と黒字のボーダーラインだったといわれている.しかし,1982年初頭には30万部を下回っていた.ロッキード事件の「田中角栄法廷写真の隠し撮り」は,社会に衝撃を与えた.これにより,『フォーカス』は飛躍的に部数を伸ばしていくことになる.

 法廷に立つ田中角栄を隠し撮りするなど,リスクが大きすぎる.創刊間もない雑誌など,廃刊に追い込まれる恐れすら杞憂ではない.しかし,それをやってのけた男がいた.カメラマン福田文昭は,日ごろから「撮れるか,撮れないかの難しい仕事がやりたい」と豪語していた.フォーカス編集部に所属する前は,女性誌などで10年間張り込み写真を生業としてきた男だ.気概と忍耐力には定評があった.早速,福田は偵察を始める.どのカメラなら金属探知機に引っかからないか.鮮明な写真を得るため,手ブレを抑えることができるか.カメラをどこにしのばせるか.半年間にわたり,11回もの試行錯誤を繰り返したのだ.

 裁判傍聴席で,シャッター音をごまかすことができ,その動作も気取られずにすむには,チャンスは1回しかない.「本日はこれまで」と裁判長が閉廷する瞬間しかないのである.それを待ちかね,ついに福田は田中の姿をカメラに収めることに成功した.とらえたカメラはミノックス,小型で軽量であることがそれを選んだ決め手だった.面白いのは,欠かさず傍聴してきた立花隆の態度である.福田が何を企んでいるかは,『田中角栄研究』で田中を獄中に追いやった立花には,とうにお見通しだったのである.1982年3月24日午前11時23分,カメラに収めたことを福田が確信したそのとき,出口で立花は福田に「撮れた?」と囁いたという.実に立花らしい.

 そうまでして編集部が生の写真にこだわったのには,「百万言を費やすより1枚の写真が全てを物語る」という,徹底したコンセプトを貫こうとしたためである.そのためには,いかなる労力も惜しまなかったというのが,当時の関係者の矜持だろう.創刊時から「時代を切り取る」をスローガンに掲げてきた編集部にすれば,「共同体」としての自分たちのアクションが事件を大衆に強く印象付け,その刺激を維持し続けるには,常にスクープを上梓し続けなければならない宿命を負わされるに,そう時間はかからなかった.

 81年10月 『FOCUS』創刊

 82年2月 ホテル・ニュージャパン大火災

 82年4月 田中角栄法廷写真掲載

 83年3月 100万部突破

 84年1月 200万部を記録

 84年11月 講談社から『FRIDAY』創刊

 85年8月 日航ジャンボ機墜落事故

 87年12月 『FRIDAY』襲撃事件

 91年6月 雲仙普賢岳取材中のカメラマン火砕流により殉職

 95年1月 阪神大震災特集

 97年7月 神戸少年A顔写真掲載

 99年12月 桶川ストーカー殺人事件警察より先に容疑者撮影

 00年10月 中川官房長官と右翼の写真を掲載

 01年8月 『FOCUS』休刊

 以上が,『フォーカス』の略年譜である.「時代を切り取る」「ジャーナリズムにおける写真の革命」「権力への挑戦」――どれも勇ましく,仰々しい.しかし,どこかきな臭い.それよりも,この雑誌が創刊されたときのコンセプトを聞かれて答えた専務の「人殺しのツラが見たくないのか」という言葉の方が,すんなりと納得がいく感じがする.休刊に寄せて,メディア批評誌『創』編集長篠田博之とパロディストのマッド・アマノのコメントは,プライバシーの侵害を生業とするスタイルの雑誌が生き残る時代ではもうなくなった,という点で意見は一致している.だが,死期を迎えた雑誌は,理不尽な形で生命を奪われたわけではない.病巣の根は深層部分にまで進行していたのである. 長年編集部でアンカーライターを務めた斉藤勲によれば,記事には必ずパターンがあるという.

意識はしないのだが,書こうとすると,どうしてもどれかのパターンにはまっているのである.抜け出そうとしても,なかなか抜け出せない *2

 このことを,「パターンの蟻地獄」という.読者は『フォーカス』を手に取り,感じた驚きを次の購買意欲につなげる.そのメカニズムを循環させるには,常に突出した内容を記事にすることが求められる.自誌がその位置づけにあることは,週刊誌の編集部として不文律であることを承知していたはずだ.

 ところが,テレビでもフォーカスのスクープの映像が流れ,解説を交えて記事の内容が放映されるようになり,インターネットの普及で迅速に事件の詳細を検索できるようになった90年代後半から2000年代にかけ,徐々に写真週刊誌の生命は奪われていく.新たな手法で読者層を開拓する努力にも乏しく,急速に飽きられていくことは時間の問題だった.

 現在では,この類の雑誌は講談社の『FRIDAY』と光文社の『FLASH』の2誌のみとなっている.『フォーカス』以外では,『TOUCH』(小学館)『Emma』(文藝春秋)『スクランブルPHOTO』(新英出版)などがあったが,全て休廃刊に追い込まれている.現存の2誌も雑誌の王者として君臨しているわけではなく,日本雑誌協会の調べでは,『FRIDAY』が46万5,921部,『FLASH』36万9,592部で,全盛期の『フォーカス』の4分の1にも及ばない.いかにこの業界の雑誌がしのぎを削る位置にあるかがわかる.

 フォーカス編集部は,新潮社別館に置かれていた.1001号の最終刊が世に出る数年間で,累積赤字は数十億円に逹していたという.しかも一連の訴訟による損害賠償の額が数千万円に膨れ上がっていたことを考えるならば,『フォーカス』の生命線が途切れることは時間の問題だったといえるだろう.しかし,政界の要職者のスキャンダルが『フォーカス』によって明るみになり,「個人情報保護法」立法議論の嚆矢となり,神戸の少年Aの顔写真を掲載したために,刑事罰の対象年齢の引き下げなど厳罰化の条項を盛り込んだ「改正少年法」の機運が一気に高まるなど,社会の断面を『フォーカス』が切り取ってきた事実に違いはない.

 メディアが社会性を持ち社会的影響力を維持するには,情報の提示と担い手としての役割が重く課せられる.メディアとして存在が許されなくなった時,その雑誌は役割を終えたと考えるべきか,役割を全うするだけの力量がないと社会から通達されたというべきか,それとも,そのいずれの可能性もどこかの時点で使い果たしたというべきか.

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: フォーカス スクープの裏側

著者: フォーカス編集部

ISBN: 4103981024

© 2001 新潮社

*1 斎藤勲(2001)『さらば「フォーカス」!』飛鳥新社, p.76

*2 斎藤勲,前掲書,p.222