■「かくも長き不在」アンリ・コルピ

かくも長き不在 デジタル修復版 [Blu-ray]

 誰もがバカンスに出かけ,ひっそりとした真夏のパリ.ある日,カフェを営む女主人テレーズ・ラングロワの前に,記憶を失ったという浮浪者が現れる.その姿は戦時中,ゲシュタポに連れ去られた夫アルベールにそっくりだった.河岸で生活を営む男をテレーズは店に招き,彼の記憶を呼び覚ますべく,さまざまなエピソードや音楽で働きかけるのだが….

 女の縁ほど,不思議なものもない.原家族を別にすれば,最も信頼のおける他人(異性)が伴侶となり,匹偶となる.矢野龍渓の『経国美談』に,「得難きの匹偶にて相思の情縁は定めて両人の間に生ずべき」とある.ともに老い,支え合いながら生きていく夫婦の間には,恋慕を超えた「相思の情縁」が醸されるものなのだろう.もっとも,それに日々感謝するほど,存分に湛えられた愛情を自覚し合うことは,気恥ずかしさも手伝って,なかなか素直に表現できるものでもない.かつての新鮮さが色褪せ,生活の不満が相手への不満に同化され,苛立ちが募ってくる.その傾向は多くの場合否めないが,だからこそ男女の間柄を取り結ぶ出来事を束の間であれ,想起させる「努力」が双方求められるのだろう.

 戦争場面を一切描かずに,引き裂かれた夫との再会と邂逅を求める女性の姿を描くことで,「静謐な反戦映画」とされることが多い本作だが,それとともに,時間の流れが失わせたのは男と女の共有した「記憶」であり,その無情さを伝えていることも印象深い.映画としての物語を追いながら感涙させる作品は数多いが,静かに鑑賞できた後に,いくつかの場面をふと想起すると,気づけば涙ぐんでしまっている.そんな心の澱となる映画は少ない.

 パリ郊外,セーヌ河岸に近い喫茶“古い教会のカフェ”を切り盛りする女主人テレーズは,気丈な美人.常連には慕われ,運転手のピエールとは深い付き合いもある.夫が長年不在で,女盛りを独り身で過ごしてきた彼女に,強さ・か弱さが同居しているのは当然のことだった.そんな彼女の前に,一人の浮浪者が現れた.その姿を見て,テレーズは目を疑った.――似ている,あの人に――その男は,16年前に第二次大戦でゲシュタポにより拉致され,行方不明となっていた夫のアルベールに瓜二つだったのである.ある日の夕暮,手伝いの娘を男と接触させ,物陰で男の言葉に耳をそばだてた.彼は記憶を失ったのだという.気持ちを堪え切れなくなり,テレーズは男の後を尾けていく.セーヌ河のほとり,掘っ立て小屋に彼は暮らしていた.男の様子を窺いながら,テレーズは翌朝までその場を離れることができなかった.「まさか」の思いは,彼女の中で確信に変わっていった.

 夫が何らかの理由で記憶を失い,妻の前に現れたのか,それとも記憶喪失の他人の姿に,妻は幻影をみたのか,映画の帰結としては判然としない.映画の冒頭で映し出される浮浪者の後頭部,そして彼がいつも口ずさむのは,ジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini)のオペラ「セヴィリアの理髪師」の第一幕,セレナーデ「夜明けの光(空は微笑み)」である.

 空は空け染め,美しい朝が訪れる

 なのに,あなたの眠りはまだそんなにも深い

 目覚めてよ,愛しい人よ

 ここへ来て,美しい人

 そしてどうかこの矢を抜いてほしい

 私の胸を貫いたこの矢を

 なぜ,男がこの歌詞を口ずさんでいるのだろうか.まさにそれと同じ気持ちで,長い長い時間をたった独り,生死が定かでない夫のことを諦めきれずに身を焦がす思いで生きる女性がすぐ近くにいるというのに.マルグリット・デュラス(Marguerite Duras)の原作を忠実に再現した場面は,そのいずれも記憶喪失の男がアルベールだと示すものではない.彼が好きだったというブルーチーズ,彼とよく似た姿かたち.しかし,そんなことよりも,愛する妻の姿を目にしたことで記憶が蘇えることにはならないのか.こんなにも待ってきた自分を見て,何も心を動かされない男を前に,胸が張り裂けそうなテレーズの姿.その期待と惑いが激しく交差する様に,見る者は心を震わされ,感情移入してしまう.人物の設定そのものが,いかに無造作に残酷さを演出するかを如実に示しているのであり,記憶を失った「夫かもしれない」男にとっては,テレーズはかつての「妻かもしれない」女,しかしテレーズにとっては,「厳然たる夫」であると信じざるを得ない男なのである.

 激しい感動はない.しかし,種火のような哀切感が,いつまでも消えない.その理由は,ありとあらゆる手を使って,男の記憶を取り戻すこと,すなわち夫であることの証明を得ようとするテレーズのいじらしい姿が真に迫っていることから生み出されている.見栄も外聞もない手練手管.そのようなものが本当にあるのだとしたら,テレーズのような態度のことをいうのだろう.アルベールが行方不明とされてからというもの,女一人気丈に振る舞い,周囲の信頼を得てきた.積年の寂しさを紛らすため,男に抱かれることもある.しかし,自分の本当に求めている安らぎはない.それをひた隠し,知恵と勇気をもって生きる女性の賢(さかし)さをテレーズは持っている.だが夫が目の前に現れ,彼女を抱きとめてくれたなら,それらはすべて崩れ去るだろう.彼さえいれば,そんなもののどこに益があるというのだろうか.泣き,怒り,拗ね,これまでどれだけ大変であったかを訴え,どんなに心細かったかをぶつけ,夫を責めるだろう.しかし最後には,幸福と安堵からくる涙のうちに,微笑んで夫を許すだろう.だから,どうか戻ってきてほしい,自分のもとに.

 数限りなく夢と思い描いてきた,夫婦2人きりの生活.それは,時代さえ違えばごく普通の生活として日常に溶け込んでいるはずの願望だった.目の前にいる男は,そんなテレーズの思いに寄り添うことなく,悲しげに頭を振るばかり.そのことが,テレーズの心に迷いと遠慮を呼び起こすのである.心の距離を埋めるべく,静かにダンスをすることに漕ぎつけたテレーズは,我慢できずに男の頭部に手を這わせる.すると,後頭部に上下に走る大きな傷跡のあることが鏡越しに分かった.爆撃の傷跡である.これをゲシュタポの拷問による傷と理解することもできるかと思ったが,デュラスの担当した脚本には「彼は,爆撃を受け頭に修復不能までの穴をあけられた男であり,今,彼は幻覚のように存在しているだけ」との記述がある.しかし,そのどちらであっても「戦禍」の爪痕を示す本質的なことに変わりはない.そして,この男がアルベールであろうとなかろうと,戦時の男たちが同じ境遇にあったということと,まさしくアルベールがその男たちの1人であったことに疑いはないのだ.

 夫の不在は,終止符を打たれることはなく今後も続く.結局,記憶喪失の男の正体は不明なままであるが,彼とアルベールの明確な共通点が一つだけある.それは,ナチス暴力装置・秘密警察の"夜と霧"強行により拷問,劣悪な待遇や拘禁がなされた事実である.テレーズが浮浪者の顔を初めて見るシーンは,その男が警官を避けて歩き,彼女と鉢合わせしそうになったことがさりげなく描写される.さらに,テレーズと近隣の住民たちが,アルベールの名を男の背に向け叫ぶ場面では,突然男が手を挙げ,恐怖にひきつった表情が映る.その顔をテレーズは見ていないが,これは群衆に交じった警官が男に呼びかけた直後の反応なのである.おそらく警官の声のトーンには,ゲシュタポの要員と同じように,命令と拘束力のある威圧的な響きが含まれているのだろう.それを条件反射的に受け止め,両手を挙げる「習性」が男の全身に現れた.

 1960年代のフランス映画は,瑞々しさや生々しさを作品の特色とするヌーヴェルヴァーグ(新しい波)の影響にさらされていた.男と出会ったテレーズの数日間が映画では描かれる.本当に夫であるかを確かめるため,男の現れる時間を心待ちにし,服装に気を遣い,髪に櫛を通し,表情に張りのあるテレーズは,彼に会うまでの彼女とは明らかに違って華やいでいる.女性の美しさは,それを本当に見せたいと願う人の前で,真価が引き出されるのかもしれない.

 アンリ・コルピ(Henri Colpi)は,この映画のあと,注目作を撮ることはなくなった.映画監督,雑誌編集者,脚本家,音楽家,編集技師など様々な顔を持っていた彼は,ヌーヴェルヴァーグを支えた一人である.チャールズ・チャップリン(Charles Spencer Chaplin Jr.)の誘いを受け,「ニューヨークの王様」(1957)も編集したことがある.後年は編集の仕事に注力し,表舞台に姿を現すことは少なかった.カンヌで映画祭50周年を記念したパーティで,マーティン・スコセッシ(Martin Scorsese),今村昌平らに交じって参加したことがあるが,ぽつんと独り佇み,さびしそうな姿であったという.本作に感銘を受けたという今村が,映画を讃え,テレーズが男を見送るラストシーンをその場で真似てみせると,コルピの目から大粒の涙がこぼれ落ちた.彼の繊細な感性を思わせるエピソードであり,永遠に埋まることのない男女の時間と心の距離を静かに表現した映画そのものと,どこかひたむきでいじらしいテレーズの姿に重なる.

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原題: UNE AUSSI LONGUE ABSENCE

監督: アンリ・コルピ

98分/フランス/1960年

© 1960 Procinex,Societé Cinématographique Lyre,Galatea Film