▼『八甲田山死の彷徨』新田次郎

八甲田山死の彷徨 (1971年)

 日露戦争前夜,厳寒の八甲田山中で過酷な人体実験が強いられた.神田大尉が率いる青森5聯隊は雪中で進退を協議しているとき,大隊長が突然“前進”の命令を下し,指揮系統の混乱から,ついには199名の死者を出す.徳島大尉が率いる少数精鋭の弘前31聯隊は210余キロ,11日間にわたる全行程を完全に踏破する.2隊を対比して,組織とリーダーのあり方を問い,自然と人間の闘いを描いた名作――.

 百名山にも数えられる八甲田山は,青森市の南側にそびえる成層火山群.山岳の最大の特徴は,その凄まじい雪の洗礼である.早い年には,10月に尾根は銀嶺に染まる.大町桂月は,大正末に「雪の八甲田山」で「明治三十五年に雪中行軍の惨事ありてより,其名初めて世に知られたり」と記した.陸軍第八師団の2つの隊が雪中行軍に挑み,遭難により210人中199人が凍死する事件が起きて後,八甲田山は全国的な知名度を高めることになった.

 明治35年1月23日,青森歩兵第5連隊第2大隊(大隊長山口少佐,参加者210名)が岩手県に入る雪中行軍を計画した.八甲田山を越える無謀な試みは,ロシア軍とのきたる戦いに雪原野でも応戦すべきと将兵を鼓舞するものだった.その壮挙がいかに失敗の道を辿ることになったかは,次の数字が十分に物語っている.

 ・行軍指揮官・第5中隊長神成文吉大尉(1869-1902)以下,199人が凍死

 ・発見された生存者17名,うち6名は収容後死亡

 ・発見された死体のうち姓名が確認された者69名,未確認遺体39名,死体未発見85名

 「冬の八甲田山を歩いて見たいとは思わないかな」――旅団長・少将が2人の大尉に語りかけたこの言葉は,肯定の言葉を大尉達が従順に返すことを,言外に強制するものでしかなかった.八甲田山の遭難事件が,企業の組織論でもしばしば取り上げられることになったのは,組織の中での統率力,計画力,危機管理能力を容赦なく突きつける現実を,この上ないケース・メソッドとして取り上げられるからだろう.なぜ,雪の八甲田越えなどという無茶な行為を第5連隊は強行したのか.そこには,蛮勇としか思えないもう1つの事情がある.越後の高田,新発田の師団に遅れをとるまいと,青森歩兵第5連隊の耐寒演習は熾烈を極めていた.上層部が功を逸るあまり,個人の意志を超越し,死の行軍を決行したことは見過ごされるべきではない.

 新田次郎が,極めて有能な気象庁職員であったことはよく知られている.富士山気象レーダー建設の研究員として嘱望され,レーダー建設後は国連の気象学会で報告を行ったほどである.その執筆は緻密で,独自の計画に基づいて進められる.新田が考える八甲田山遭難事件の最大の原因は,「雪中行軍競争」が第31連隊と第5連隊の間で繰り広げられたことにある,ということだ.つまり,この遭難は「人災」であると筆者は考えた.天災ではなく人災であると考える根拠は,青森地方気象台に残る当時の記録を確認すると,にわかには信じることはできない.というのは,明治35年1月23-27日までの気温は,最低温度はなんと氷点下12.3度.この最低気温は,最近では「例のないほどの大寒波」と青森地方気象台では判断している.

 それだけではない.八甲田山の頂に猿が現れる年は,大雪といわれる.そのような言い伝えが筒井村の村人から連隊に申し入れられたが,これを隊は一蹴している.

 異常な寒冷はかくして,2個の連隊を襲うことになり,第5連隊はほぼ全滅,31連隊は別ルートで行軍を成功させた.が,その是非を問う姿勢は本書には認められない.どちらの隊に報償が期待されるわけでもなく,それを追及するべきものではないからである.仮名で脚色はあるものの,史実を礎にしていることの抑制が効いている.作中,生還を果たした少佐は,中佐への報告で述べる.

今回の遭難の最大の原因は自分が山と雪に対しての知識がなかったからである.第二の原因は自分が神田大尉に任せて置いた指揮権を奪ってしまったことである.総ての原因はこの二つに含まれ,そしてその全責任は自分にある

 設営準備,指揮系統の混乱,雪に対する科学的見識,そのいずれもが幼稚であったが,どれも真相と呼べる決定力はない.筆者がこの悲惨事の最大のリスクと考えるのは,やはりこれが,日露戦争の従前を背景とした軍事訓練から発生したということである.その訓練は過酷な人間実験の体をなしたことが,事件の最大の要因だとする.さらに,事件の関係者はだれも責任を負うことなく,そのままの体制で日露戦争に突入していったとする評価は,当時の軍の焦りがこのような悲劇を生んだにもかかわらず,悲劇そのものは軍事訓練の抑止力になりえなかったことを提起しているのである.

 新田次郎の本書執筆に大きな影響を与えたのが,小笠原孤酒である.本書に新田が取り掛かる前,すでに小笠原は『吹雪の惨劇』第1部を書き上げていた.第5部まで書くことを計画されていたが,諸般の事情からこのシリーズは未完に終わる.だが,実名,考証などきわめて正確で,新田にも実名で執筆することを勧めた人である.それほど新田への影響力を持っていた人だった.小笠原の句にいう.

惨劇の 証人絶えて悲しみの 吹雪く青森 駅頭に立つ

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原題: 八甲田山死の彷徨

著者: 新田次郎

ISBN: 4103160047

© 1971 新潮社