▼『外交官E・H・ノーマン』中野利子

外交官E.H.ノーマン―その栄光と屈辱の日々1909‐1957 (新潮文庫)

 外交官で歴史家のE・H・ノーマンは,なぜ赤狩りの標的にされ,カイロで自殺したのか?カナダ人の宣教師の次男として軽井沢に生れた彼は少年時代を日本で過ごした.ケンブリッジハーヴァード大学で歴史を専攻,1939年カナダ外務省に入省.マッカーサーの腹心として,占領下の日本の敗戦処理に尽力し,エジプト大使として,ナセルの信頼を得てスエズ危機を回避した.彼の光と影を追う――.

 野県軽井沢生まれ,ハーバード大学エドウィン・O・ライシャワー(Edwin Oldfather Reischauer)のもとで日本史を学び,学友・都留重人コミュニズムを論じる.1941年12月8日,開戦と同時にエドガートン・ハーバート・ノーマンEgerton Herbert Norman)はカナダ公使館内に抑留された.戦後は,アメリカ政府の要請によりカナダ外務省からGHQに出向,GHQにおける政治情勢分析,政治犯及び戦争犯罪容疑者に関する調査を任務とする対敵諜報部(CIS)調査分析課長に任命されている.日本の「民主化計画」に携り,サンフランシスコ対日講和会議のカナダ代表主席随員を務めた後,ノーマンはカナダ外務省のパワー・エリート層から外されてしまう.

 エジプト大使兼レバノン公使としてスエズに赴任,国連緊急軍(UNEF)の派遣でスエズ危機が沈静化して程なく,ノーマンに対する共産主義思想疑惑と追及がなされていった.1957年3月のアメリカ上院国内委員会では,GHQ時代の同僚,また旧友の都留が喚問され,ノーマンの嫌疑は晴れるどころか深まった.ノーマンは,1957年4月4日に赴任先のカイロのホテル屋上から投身自殺を遂げた.長らくノーマンは「忘れられた外交官」とされてきたが,ジョン・W.ダワー(John W. Dower)『ノーマン選集』,没後20年の全集刊行などにより,この外交官がコミュニストではなく,デモクラットであったとする再評価の機運が高まってきている.

 本書は,ノーマンを「不遇なエリート」として,米国上院司法委員会治安小委員会(SISS)による事実歪曲を典型的に糾弾する.だが,表面的にはコミュニズム非難,実は多元的価値観に対する攻撃こそマッカーシズムの実質であったという説が,ノーマンにきれいに当てはまるとするのは早計かもしれない.冷静崩壊後の機密解除,1990年3月カナダ外務省の依頼を受けて作成された「E・ハーバート・ノーマンの“国家に対する”忠誠」(通称「ペイトン・ライアン報告書」)では,ノーマンがソ連のスパイであったことを示す証拠は「皆無」とされた.

 問われるべきは同報告書の精密さである.機密解除後もノーマンに関する機密情報を現在も公開していないカナダ政府の態度,公開文書に見られる部分的削除.「ノーマンの不運は,現実にソ連のスパイ網があばかれたのと同時期に生き,彼らと同時期に同じ場所に学び,同じ場所でコミュニストになったことである」.「コミュニストとみなされることと,『スパイの疑い』との間には距離がある」――その距離が遠隔であるのか,至近であったのかは,ノーマンのナイーブさだけを視るのでは判らないということだ.

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原題: 外交官E・H・ノーマン―その栄光と屈辱の日々1909-1957

著者: 中野利子

ISBN: 4101362319

© 2001 新潮社