自らの「情緒」を「長夜の一閃光」と呼ぶ…世界的数学者にして,同時に独自の哲学を込めた随筆を執筆,今なお熱心な読者を持つ岡潔.「情緒」「独創」「教育」と一貫して知性のあり方を考え続けた,著者の思想の真髄を伝える名著を56年ぶりに復刻する――. |
論理力を鍛錬すると一般に理解される論理学や数学だけでは,突破できない界域がある.多変数解析函数論の難題「3つの大問題」を一人で解明した岡潔は,芭蕉の連句,道元の『正法眼蔵』,無名女流歌人の歌に親しみ共鳴,紀州和歌山の村で蛍狩りにいそしんだ.岡は,金銭感覚や一般常識とは無縁で数々の奇行の代償に,多変数複素関数論における正則な領域の研究など異常天才ぶりを発揮した.
"Kiyoshi, OKA"を団体名と勘違いしていた権威カール・ジーゲル(Carl Ludwig Siegel)は,ドイツからわざわざ岡を訪ねてきてその姿を見るなり「おお,オカ!」といきなり抱きついて「お前は近ごろの数学をどう思うか」と問うた.アンドレ・ヴェイユ(André Weil)やアンリ・カルタン(Henri Paul Cartan)も岡に会うため来日をいとわなかった.岡は,1963年から1969年の7年間のうちに『春宵十話』『風蘭』『紫の火花』『春風夏雨』『月影』『春の草 私の生い立ち』など多数のエッセイを書いた.
論理に先駆けた人間の心の動きなくして,志操堅固の数学研究も成立しない.「純粋直観」の泉は,常に詩情と情緒の感性に求められることを,岡はアンリ・ポアンカレ(Jules-Henri Poincaré)や芥川龍之介と同じ次元で感得していたように思われる.表題(紫の火花)とは,芥川が文学者として"美"に生涯をかけようと決めた夜,電線と水たまりの間に散る「紫色の火花」を見た逸話から拝借している.初めての業績となるはずだった「函数の特別な性質を調べる質」の到達点を,フランスで学会報告する直前,急に完成度の低さに気づいて発表をとりやめている.
タイプライターで打たれた原稿は,紫のリボンで留められ長年放置されていた.パリ留学を経て未解決であったクーザンの問題第1,第2,近似問題,レビーの問題など数学史に残る解明に成功し,文化勲章受章後の1963年11月に至って,放置し続けた未発表の到達点をあらためて再考しようかと本書で述べている(「独創性とは何か」).芥川は紫の火花の美しさをみて「他の何ものに変えてもこれだけは取っておきたい」と考えたという.私心なき純粋さで,感性と論理の合理的調和にこそ美の本質を確信していた岡はその決意に共鳴したが,数学者の道を歩み始めた最初期に萌芽はあったのかもしれない.
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原題: 紫の火花
著者: 岡潔
ISBN: 978-4-02-262004-0
© 2020 朝日新聞出版