■「ラスト、コーション」アン・リー

ラスト、コーション [Blu-ray]

 1942年,日本占領下の上海.抗日運動に身を投じる美しき女スパイ,ワンは,敵対する特務機関のリーダー,イーに近づき暗殺の機会をうかがっていた.やがてその魅力でイーを誘惑することに成功したワンは,彼と危険な逢瀬を重ねることに.死と隣り合わせの日常から逃れるように,暴力的なまでに激しく互いを求め合う二人.そして,二人のスリリングで危険に満ちた禁断の愛は,時代の大きなうねりの中で運命的なラストへとなだれこんでいく….

 湾に生まれ,イリノイ大学ニューヨーク大学で映画撮影の技法を学んだアン・リー(Ang Lee)は,本作を「ブロークバック・マウンテン」(2005)の姉妹的作品と位置付けた.第二次大戦の日中戦争下,吹き荒れる抗日運動の嵐と親日派要人の暗殺計画.ファム・ファタールの任務を帯びた女スパイが,特務機関の要人の籠絡を試みる.名前,経歴,交友関係のすべては,男の有する情報奪取と暗殺遂行のための虚構であった.

 当時の上海では,同様のスパイ活動を行った女性が実在していた.鄭蘋茹(テイピンルー)という.類稀なる美貌で,日本国総理大臣近衛文麿の子息,東亜同文書院に留学中だった近衛文隆に近づいた.プリンストン大学留学中から,美男でスマートと評判だった文隆は,鄭蘋茹を伴って,上海の歓楽街を練り歩いた.甘い誘惑で敵国日本の情報を引き出し,日本側諜報機関の機密が漏れるようなことがあれば,日中問題に発展する.これを危惧した近衛家は,文隆を日本に呼び戻す.その後,日本側諜報機関「対重慶特工総部」に逮捕された鄭蘋茹は,中国人官吏の死刑執行官により銃殺刑に処された.抗日運動の不倶戴天の敵,親日派特務機関の要人に身も心も捧げ尽くす.大義名分ともなる宿願を果たすため,数年計画でポーズを取り続ける.「暗殺遂行」それ以外に,一片の真実も生まれる余地はない――.

 汪兆銘政権は,日本の傀儡政権と呼ばれた.日本軍により家族を蹂躙された過去をもつワンと,父親を殺害されたライの政治目的は,学生の身ではあるが一致していた.好青年と可憐な女子大生は,抗日運動に身を投じていく.日本側に虐げられる一般国民が大多数を占める一方,高価な衣服に身を包み,美食に舌鼓を打ち,麻雀に興じるイー夫人たち.この優雅な生活は,同胞を弾圧し敵国日本に協力することで与えられていた.リーは,撮影監督とともに,麻雀のシーンを重視した.中国の国技的ゲームとされる麻雀は,四方の壁を城壁に見立て,“内戦”をイメージさせる場面に仕立てている.

女性ばかりの麻雀.4人それぞれが頭の中でいろいろなことを考えている.女同士の言葉の闘いを通し,男性の戦争を表現した.表情や仕草はエレガントだが,彼女たちの言葉を吟味してみると大変激しい *1

 中国の人々の愛国心の強さは,ワンらが売国奴へ向ける怒りとなって尖鋭化する.気ままに雑談しているように見える夫人たちの会話は,夫の政治力が享受してくれる生活であることを忘れ,華美な生活をただ競い合うものだ.マー夫人として夫人たちの交友に潜入していたワンは,特務機関トップに昇進したイーを焦らし,隙を突くため罠を仕掛けていく.2人が身体を重ねるシーンは,絶対的人間不信から,イーがサディスティックに欲求をぶつけるだけの初回,乱暴な愛撫で絶頂を迎えるワンを丹念に描写する2回目,そして,互いの情愛を濃密に確かめ合うような3回目.肌を重ねることは,暗殺の手段であってそれ以上の意味を与えられることはない.そんなワンの想定は,本人も自覚できない深部から,少しずつ彼女の心を狂わせていく.

 抗日地下工作員の上官は,暗殺の機を窺うために,「当分はイーを誘惑し続けろ」と命じ,密かに心魅かれていたライまでもが,それに同意して彼女を労わってはくれない.誰にも心を開かない仇敵イーは,組織の味方とは逆に,自分を愛してくれる.そこに安らぎを見出しつつある自分に気付いたワンは,身を震わせ動揺する.夫人にすら心を許さないイーは,「君だけは信用できる」とワンに語りかけ,常に生死を脅かされる任務の合間の逢瀬を拠り所にしつつあった.見せかけの恋愛が真実の関係に陥っていることにワンが気付いた時,ついにイー暗殺の千載一遇の機を得る.歴史上,鄭蘋茹が諜報活動を行った時も,誤算による同じ心の動揺を感じたのであろうか.ワンとイーの愛と葛藤は,成就せぬまま1つのフィナーレを迎えることになる.前述の通り,本作は「ブロークバック・マウンテン」と同じ系譜に位置づけられた.両作品は,決して報われることのない愛を描いている.しかし,幸福に包まれることに終わらなくとも,愛欲を求め高め合った関係は真実のものだ.列強国の覇権争いが渦巻く上海,過酷な社会情勢にあって,時代に翻弄され,欲情を伴いつつ一瞬だけ燃え上がった関係だとしても,その真理は揺るがない.

 ヒロインの暗殺者には,当時無名のタン・ウェイ(Wei Tang)が起用されている.幼さを残した外見をもちながら,色香との両立が求められる難しい役柄を見事にこなしている.約1万人の候補者から,不眠で目の下にクマを作って現れた彼女を目にした瞬間,リーは「この映画のヒロインは彼女のものだ」と直感したという.学生たちの企てる暗殺計画は,情熱はあるが杜撰で幼稚.初めのイー暗殺失敗から5年後,ワンが愁いを帯びた美貌を高めたのに対し,ライの変わりのなさは頼りないほど.

 「色」「戒」,人間の理性と愛情の鬩ぎ合い,一方では日中戦争に揺れる中国そのものを描く映画であるが,銃撃戦などの場面は登場しない.当時の風俗文化,占領下にある上海で日本兵の闊歩する様子,日本の料亭の再現などの完成度は非常に高い.特に,日本兵や女将がしっかりした「日本語」を喋っているのが,意外なほど場面に説得力をもたらしている.だからこそ,ワンとイーの密かな睦み合いの奥の間が,鮮烈な印象を与え,映画の根幹にかかわるディテールの徹底,当然のようでその難しさを伝えてくれる場面となる.

 イー役のトニー・レオン(Tony Leung)は,圧巻の一言.中国人民を敵に回し,蛇蝎のごとく嫌われる男の頬はこけ,人前では,スーツのボタンを外すことさえしない.危機察知能力の異常な高さを示す終盤のシーンは,彼が常に身を置いている世界とは,抜き差しならぬ状況の連続であることの証明である.それほどまでに心に巣食った孤独と猜疑,しかし,それを溶かすものがたった一つだけあった.誰も予測することのできないもの,それは男女の肢体の直接的結びつきでは必ずしもなく,視線のぶつかりと絡み合いに籠めた官能美で説明されている.理性を超えた領域にある神聖な精神性を,肉体の結合を交えることによって,愛のもつイデアの必然を訴えている.ワンの最期の表情は,決意を秘めた扇情的な視線をこちらに向ける.イーの悲壮な表情を映し出す最後の場面は,茫然と,譬えようもなく哀しみを湛えた男の視線を移ろわせる.彼らは,画面の内外で千々に乱れた心をおさめることなく,視線をかたく絡ませ合っているのである.

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原題: 色,戒

監督: アン・リー

158分/中国=アメリカ/2007年

© 2007 Hai Sheng Film Production Company et al.

*1 http://www.cinema.janjan.jp/0801/0712280100/1.php