▼『マークスの山』高村薫

マークスの山 (ハヤカワ・ミステリワールド)

 昭和51年南アルプスで播かれた犯罪の種は16年後,東京で連続殺人として開花した.精神に〈暗い山〉を抱える殺人者マークスが跳ぶ.元組員,高級官僚,そしてまた…謎の凶器で惨殺される被害者.バラバラの被害者を結ぶ糸は?マークスが握る秘密とは?捜査妨害の圧力に抗しながら,冷血の殺人者を追いつめる警視庁捜査第一課七係合田刑事らの活躍を圧倒的にリアルに描き切る本格的警察小説の誕生――.

 士山に次ぐ高峰南アルプス赤石山脈)は,北アルプス飛騨山脈)の峰の鋭さに比して,比較的なだらかで森林限界が高い.南アルプス北岳山頂から斜めへと延びる長い尾根,日没後の上も下もない闇,両側にそそり立つ暗い垂壁.漆黒に閉された道を独り歩く「少年」の心象風景から始まり,硬質にして緻密な文体で淡々と描き込まれるのは,成長した青年〈マークス〉の精神の奥に聳える"暗い山".

 夜叉神峠からトンネルを抜けた場所,そこで車内の一酸化炭素中毒一家心中を半ば偶発的に生き延びた少年は,重度の精神疾患に陥り"暗い山"と"明るい山"を3年周期で繰り返す精神構造を獲得した.「ジキルとハイド」的に出現する人格〈マークス〉が次々と手にかけ殺害する被害者と,その過去の接点――凶悪犯〈マークス〉を追う警察組織の捜査員たちの生臭い人生観や世界観の衝突と妥協.キャリア対ノンキャリアの確執は憎悪と紙一重でもあるが,捜査班内では一定の信頼関係がなければ捜査は進展しない.

 警視庁捜査第一課七係合田雄一郎の処世術,隠滅をしようとする霞が関からの圧力――すべてを存立させながら,圧倒的な構成で結末に向け疾駆する筆力が凄い.本書は,ほぼ10年周期で3回,装いを新たに世に出された珍しい小説となった.単行本は1993年(早川書房),文庫版は2003年(講談社),2011年(新潮社)である.時間の経過とともに著者の心理状態は当然変わり,特に2003年の文庫化に際して大幅に改訂されている.全文を一から書き直し,5か月で書き上げた作品が,改稿に9か月かかったという.警察組織の描き込みはより詳細になり,硬質と冷徹のなかに荒々しさが残っていた文体は,丁寧に角が取れるように研磨された.

 〈マークス〉の思考の流れが解りやすくなるよう配慮した補足説明も追加されているが,精神のひずみで殺人を犯し続ける青年の内省など,説明されるほどに不気味さは減じてしまう.死の淵から生還して南アルプスの闇を降りた少年は,底知れぬ精神の"山"を抱え人を殺め続け,孤独のうちに南アルプスに入り捜査第一課の捜査員らは彼を追って山脈を登る.本書に限らず,物語をある形で完結させたならば「その後」も「スピンオフ」もすべて蛇足なはずだ.著者の強靭な知力と洞察力に最大級の敬意を払いつつ,文庫化に際して大幅改訂の筆癖だけは,なんとか抑えてほしいのが正直なところだ.

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原題: マークスの山

著者: 高村薫

ISBN: 4152035536

© 1993 早川書房