女性を誘拐し,皮を剥いで殺害する連続殺人事件の捜査を任命されたFBI訓練生のクラリス.彼女に与えられた任務は9人の患者を惨殺して食べた獄中の天才精神科医レクター博士に協力を求め,心理的な面から犯人に迫ることだった.レクター博士は捜査に協力する代償に,彼女自身の過去を語らせる…. |
常軌を逸した明晰な頭脳というものが,猟奇性を帯びた解析力を発揮する.本作でFBIの抱える表層的な課題は,若い女性の皮を剥いだ亡骸を河に投棄する連続殺人犯の正体を突き止め,事件の全容を解明することである.ボルティモアの精神病院に収監中の天才精神科医ハンニバル・レクターは,既存資料から目下の連続殺人犯のプロファイリングを依頼される.レクターが地下牢でFBI訓練生クラリスと対面した瞬間,冷気にも近い臨場感が場面を支配する.ジョディ・フォスター(Jodie Foster),アンソニー・ホプキンス(Philip Anthony Hopkins)の対峙空間が,その稀有なインパクトを生み出したことが何より特筆される.
紺のつなぎを着たレクターは,手の甲を見せ微笑し牢の中央に佇んでいた.その存在自体が放つ超越的な波動が,凡庸な人間を圧倒する.強化ガラスと鉄格子を挟み,レクターとクラリスの「対話」は4度登場する.両者の心理距離が微妙に変化していくいずれの場面も,重要な意味を持っている.天才的な分析力をもつレクターに対する敬意を理性で統御しようと努めるクラリスの内部には,同時に凶悪犯に対する恐怖や拒絶感が沸き起こる.だがストア学派でいう「賢者」の智慧の実践術を体現するレクターに,子羊クラリスは教えを乞わざるを得ない.バッファロー・ビルという毒を制すために,今はレクターの慧眼が絶対に必要なのである.
捜査上の示唆を与えるため,レクターが戯れにクラリスに要求したのは,彼女の心的外傷の開示.特有の「訊問」により,レクターは羊の鳴き声が未だ已まぬというクラリスの悲痛な潜在的「損傷」を掌握し,FBIがバッファロー・ビルに接近する遠隔操作を,囚われの身でありながら易々とやってのける.研ぎ澄まされた狂気のインテリジェンスの片鱗を見せるだけで,世を震撼させる事件を紐解いていくという神業である.凶悪さをも呑み込む神の如き無限の知性.エレガントな芸術を好み,該博な知識を披露する貴人の佇まいを崩さぬ一方,沈着冷静な仮面の裏に潜む獰猛な獣心がひとたび解放されたなら,レクターは絶対的な恐怖の権化となって人間社会を恐慌に叩き込む.
トマス・ハリス(Thomas Harris)の原作――ハンニバル三部作――では,『羊たちの沈黙』の続編で完結編『ハンニバル』が最も血腥く,前作ではほとんど説明がないレクター内部“記憶の宮殿”の描写が秀逸だった.ただ映画化された全シリーズ中,サスペンス,スリラー,推理要素の総合面で圧倒的優位にあるのは本作である.名実ともに,このジャンルの金字塔といって過言ではない.クラリスの口元に骸骨の模様をもった蛾「メンガタスズメ」が張付いている有名なジャケットは,注視する必要がある.その骸骨は,7人の裸婦を象ったモチーフとなっている.連続殺人の犠牲者となった若い女性をイメージさせるこの意匠は,サルバドール・ダリ(Salvador Dalí)原作の偏執狂的ヴィジョンである.
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原題: THE SILENCE OF THE LAMBS
監督: ジョナサン・デミ
118分/アメリカ/1990年
© 1990 MGM