▼『愛人』マルグリット・デュラス

愛人 ラマン (河出文庫)

 18歳でわたしは年老いた―あの青年と出会ったのは,靄にけむる暑い光のなか,メコン河の渡し船のうえだった.すべてが,死ぬほどの欲情と悦楽の物語が,そのときからはじまった.仏領インドシナを舞台に,15歳のときの,金持の中国人青年との最初の性愛経験を語った自伝的作品.センセーションをまきおこし,フランスで150万部のベストセラー――.

 紙の顔は可憐な乙女.時間の移ろいが人の顔に何を刻印するかが一目瞭然,その身に何かが起こり,そして今の顔に徐々になっていったのだ.誰しも齢を重ねることは,当人の恐れとは別なところで「蓄積」を示す.マルグリット・デュラス(Marguerite Duras)の作品群を知る重要な足がかりとして,本書は興味深い.

 フランスで1,500万部のベストセラーをたたき出し,セザール賞をさらった本書は,確かにデュラスの代表作にして象徴的な作品といえるだろう.一方,デュラスは彼女のあらゆるテーマを集約させた作品を発表している.森,太陽,苦難,アヴァンテュール,その全てを集中させたとアラン・ヴィルコンドレ(Alain Vircondelet)が感嘆したのは,『太平洋の防波堤』(1950年)である.

 初期のデュラスに英米文学が強く影響していることは,ドス・パソス(John Dos Passos),ジョン・スタインベック(John Ernst Steinbeck),ジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad)と錚々たる名前が引き合いに出されることからも明らかだ.『太平洋の防波堤』には,その後のデュラスのスタンスを示す,いくつかの題材が盛り込まれていた.それは,デュラスの「肉のいちばん深いところにひそ」み,「家族みんなにかかわった破産と死の物語」ということになろうか.

 デュラスは,霊感によって物語を”降ろす”タイプの作家に属する.その瞬間の表現しがたい「喜び」は,「制御しがたい激しさ」によって彼女のエクリチュールが草稿に対して炸裂するおもむきがある.1991年に自らを語った番組で吐露していることなのだが,「物語の中には,自己からそれを引き出し,提示するという,ほかに比べようのない喜び」「ナルシズムでもあり,露出趣味,それはあらゆる手段を用いて行われる」ということである.ナルシズム,露出趣味,物語上の人間関係の原型――これらは全て『太平洋の防波堤』によってすでに提示されていた.「書き魔」といっていいほどのデュラスの書く行為にかける「埋没性」が,さまざまな原型を初期の作品において見出されるべきなのだ.

 「文学は女のものだ」――かつて,デュラスはこう断言した.これについては,たとえば平岡篤頼は「書き魔」としてのエクリチュールは,女性の嗜好に近いと論じた.いわんや,男でもものを書くときには半ば女性化するのであって,文筆業には彼らの内部にある女性の部分が肥大化したものが認められるだろうと断じている.本書と『太平洋の防波堤』は,実は同じ素材から書き起こし,あるいは書き改められたものである.15歳の不良少女の売春行為がセンセーショナルな話題を振りまき,『太平洋の防波堤』でヒロインに言い寄ってきた金持ちの男は,本書によって中国人の「ムッシュー・ジョー」であったことが明かされた.しかし,『愛人』でデュラスは少女時代の真実をさらけ出したわけではない.デュラスには2人の兄がいるが,下のほうの兄に寄せる近親相姦的な愛着をカモフラージュするため,作中では中国人の金持ちに身をゆだねることになっている.

 デュラスの作品は,一種名状しがたい印象を読む者に与える.ぬらりとした文体が際立つ本書では特に,小説であるのか随筆であるのかの境界線を曖昧にさせている.さらに,時間軸を飛び越えて,一人称と三人称が交互に入れ替わりながら話が進み,「あれ」「それ」という代名詞が乱用される技法と相まって,混迷のきわみに読者をいざなっていく.代名詞が多用されるのが本書の特徴だが,それには理由がある.訳者の清水徹が的確に説明しているように,「あれ」「これ」「それ」など,”ça”には性行為を暗示する意味合いがある.ジグムント・フロイト(Sigmund Freud)の心的装置のうち,「エス」の領域を代名詞で用いることがある.デュラスはそれに従い,性行為・性衝動・性的昂奮状態・狂気を代名詞で用いるようになった.時期的には,本書が発表された頃からである.

 繰り返しデュラスが描いたのは,倒錯的な想像力が奔放な愛情とその行動の背景にあること,「書く」という行為が示しうるのは,本質的に形容不能な唯一のものに溶け込ませること,この2つだった.「わたしの人生の物語などというものは存在しない」と書き出される本書14ページは,デュラスにとっての創作活動の意義を述べている点で見逃せない.きわめて抽象的で判読し難い.反復と代名詞の多用,少女の性的放逸.デュラスは同時に,虐げられるものしか知りえない抑圧を的確につかんでいた.

書くということが,すべてを混ぜあわせ,区別することなどやめて空なるものへと向かうことではなくなったら,そのときには書くとは何ものでもない,と

 しあわせな家族はお互いに似ている,けれどもふしあわせな家族はそれぞれ違った姿である.レフ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой)が看破したことは本当だろうか.デュラスの家族の姿をしばし,見取り図的にさぐってみよう.

 母は善意の人だった.だが善意にあふれた人々は,盲目的に愛情を押し付けがちなものである.その過剰さに反応した上の兄は,弟と妹(デュラス)に対しては暴力的な人物だった.下の兄は,デュラスの秘められた恋慕を知っていたかいなかったか.いや知っていたはずだ.けれど,若くして彼も死ぬ.彼の身代わりが金持ちの中国人に姿を変え,本書では特別な名前までつけられた.本書の続編,『北の愛人』では,兄との近親相姦に及ぶ娘が語り部となる.デュラスの愛情を注ぐ対象は,現実の下の兄に確実に接近してきたのである.

 偽と真の混合が小説の形態であると考えるなら,本書は小説の分類に入る.だが,回想もそうあって記述されていく.真実に思える記憶ですら嘘をつくのだ.デュラスの回想がどこまで信じるに足るものであるのか,今となってはわからない部分があまりに多すぎる.それが,「想像的伝記」として本書がとらえられるべき性格であり,評価である.デュラスのインドシナ時代については,彼女は「社会階層の最下層に位置していた」と顧みている.なるほど,世間知らずで未亡人の母が子らを育てるのに辛酸をなめてきた事実はあるだろう.父はデュラスが4歳のときに他界している.両親はともに小学校の教師で,校長に昇格してから程なくして,父は死んだ.

 母親は女の細腕で子どもたちを育てた.仏領インドシナ現地で小学校教師としてである.しかし,最下層ではなかった.植民地化の現地は,白人優位であるという厳しい現実を持っていた.白人には名が与えられ,個人として扱われる.だが現地人たちはそうではなかった.レプラ患者,巡礼,飢えた人々,乞食.これらは単数で扱われることはない.同一階層に追いやられ,まとめられて見放された状態に固定化されていた.これが「社会の最底辺」ということであって,決してデュラス一家がそうであったとは思われない.

 「インドというのが,我慢できなかったのね?」

 「ええ」

 「インドの何が耐えられなかったのかしら?」

 「観念よ」*1

 母の愛情は,デュラスには向かなかった.ほとんど2人の兄に投与されていたのである.15歳を迎えるかどうかという年齢で,すでにデュラスはエクリチュールの萌芽を見せていたが,母にあえなく拒絶される下りが本書に登場する.少女マルグリットが「物書きになりたい,小説家になりたい」と母に打ち明けたところ,母は娘を冷たくあしらった.

 デュラスの内部に反逆の炎が燃え上がる.それが数年後にはデュラスの「記憶の隠蔽」に走らせた.彼女は18歳でフランスに発ち,大学に入り,以後少女時代を思い出すことをしなくなった.その思い出したくもない少女時代の舞台,数々のエピソードに虚実を織り交ぜながら執筆された作品,それが『太平洋の堤防』と『愛人』だった.その系譜は『北の愛人』に連なっている.

 デュラスは常に抑圧すべき記憶と闘っていたのである.彼女は兄によく森や海に連れて行ってもらっていた.ところが,大人になってからというもの,どうにもこの森や海が怖くなってきた.5メートルと森の中を歩くことができない.海については,単に恐怖心を抱くだけではなく,1976年にフランス国営第1テレビでデュラスへのインタビュー役を務めたミシェル・ポルト(Michelle Porte)との対話で,海に関する印象を語っている.

私は本を書く場合,いつも海辺にいたのだわ.私はうんと若い頃,母親が『太平洋の防波堤』の土地を買い,それが前面海に覆われ,一家が破産したとき海とかかわりをもった.海はとても怖く,私に最大の恐怖を与えるものとなっている *2

 経済的貧窮だけがデュラスを恐れさせたのではない.彼女は海から母を連想し,森から最愛の兄を連想して心理的苦痛を感じていたのではあるまいか.地理的に,デュラスの作品群は奇妙な特徴をもっていることも,しばしば指摘される.たとえば,『ロル・V・シュタインの歓喜』『インディア・ソング』などには,デュラス特有の地理・地形が登場する.言い換えれば,現実の地形にデュラスの作品は地理的に一致しない.

 この作為的,空間的なねじれが作品群に一定の影響を及ぼしていることは確かだ.このことを,批評家クロード・ロワ(Claude Roy)は「デュラジア(デュラスのアジア)」と読んだ.デュラジアは,デュラスの世界観を支える大陸にして神樹ともいえる.デュラスのイマージュは,本書においてはメコン河のものを避けて論じることはできない.15歳半の時の出来事は,メコン河の一支流を渡し船で横断している間のことに始まった.手すりにもたれかかる少女は,河を眺めながらその美しさに感じ入っていた.大らかではあるが,それに反して水の流れは思いのほか速い.大地が傾いているかのように,この水は支流をまとめあげ,大海原へと流れ込む.

 船の上には,黒い大型のリムジンが停まっている.そこには上品な男が乗っていて,少女をじっと見つめている.服装は垢抜けていて,銀行家のような明るい絹袖のスーツ.その男が声を掛けてくるであろうことは予期していた.白人の男たちから眺められることには慣れきっていたのだから.

 何かが起こり,何かを刻印づけることが始まった.その情念がくすぶり始めるのに時間はかからなかっただろう.けれど,それを燃料に炎上するまでには,そこから数十年の時を必要としたのではなかったか.生涯でこれ以上美しい河にめぐり合えることはないだろうとまで思えた,メコン河.果たして,それほどの場所をわれわれは持ちえているだろうか.

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Title: L'AMANT

Author: Marguerite Duras

ISBN: 4309460925

© 1992 河出書房新社

*1 マルグリット・デュラス(1973)『インディア・ソング』,p.51

*2 マルグリット・デュラス(1992)『太平洋の防波堤』田中倫郎訳,河出書房新社,p.330