1972年9月,PLOの過激派「黒い九月」がミュンヘン五輪選手村を襲撃し,イスラエル選手団の一部を虐殺した.激怒したイスラエルの秘密情報機関モサドは暗殺チームを編成し,アラブ・テロリスト指導部の11人を次々に消して行く‥‥今は本名を変えて米国に住む,元暗殺隊長の告白に基づく凄絶な復讐の記録.冷徹な組織の論理と揺れ動く個人の心理をドラマチックに描出する――. |
イスラエルでは,2人の人間が話をすれば3つの意見が出て,2つの政党ができるという.それほど多様に意見の相違がみられるということだ.しかし,国家と民族の結束は個人の考えの相違を払拭するほどに強い.600万の同胞を殺された歴史的汚辱,シオニズムの革命精神,イスラエル国家を抹殺させることを企む周囲のアラブ諸国とのパワーバランスが,イスラエルを異常な緊張状態に固定し,常に現実的な“必要性”を生んだ.それは,特異な非公然活動や対外秘密情報工作を専門とする機関を作らなければ,国家が存続できないことを意味していた.
イスラエルの諜報機関モサドは資金力や規模の面で,CIAやKGBにはるかに劣る.ところが,モサドの遂行した数々の作戦と成果をみると,機関の性能として決して見劣りするものではない.1960年アイヒマン誘拐,1969年ミグ21奪取,1981年バビロン作戦,テヘランのアメリカ大使館員奪還作戦――大胆かつ緻密なオペレーションからは,弱小国の擁する諜報機関とその強大な影響力が,一見噛み合わぬコントラストとなって浮上してくる.
本書は,ミュンヘンオリンピック開催中の1972年9月,パレスチナ解放機構(PLO)過激派"黒い九月"(Black September)8人がイスラエルのコーチと選手の2名を射殺,9名を人質に取った事件の報復を,モサド内部のエージェントがいかに遂行していったかをスリリングに描出する.事件は人質全員の命を失い,実行犯のうち3人の逃亡を阻止できなかった(5人は自爆または射殺で死亡).完全に西ドイツ警察の敗北であった.事件発覚直後,イスラエル首相ゴルダ・メイア(Golda Meir)は,モサドの諜報員を解決のため現地へ派遣することを西ドイツへ要請していた.だが,西ドイツ政府はこれを許可せず,自国の狙撃部隊による作戦に出た.その結果,失敗したのである.
26歳のモサド諜報員アフナー(仮名)は,このテロの首謀者および関与者の暗殺を命じられる.首相,モサド長官直々の極秘任務"神の怒り作戦"である.標的(ターゲット)はパレスチナ武装過激派グループ,ヨルダン内戦のメンバーなど工作員11人.モサドは武器,爆薬,移動手段,文書偽造のスペシャリストからなる暗殺チームをただちに編成し,アフナーがそのチームリーダーとして指揮を執る.モサドの諜報員に施される実地訓練は過激だが,踏むべき手続きやルールは硬直化したものではない.沈着冷静,かつ機転の利く人物でなければ任務は務まらない.その暗殺術がどれほど精緻に教え込まれたかは,以下の記述が端的に物語る.
心持ち膝のあたりを折って射撃の姿勢をとる.右手を素早く上着の内側後方下にすべりこませて,指先がベレッタの銃把をしっかりつかむ.だらりと下げてあった左側の掌が半円を描くようにして,ベレッタを握った右手の上にかぶさっていく
テロリズムに対する考え方をモサドの工作管理官は多頭怪物の退治に喩えた.
「テロリズムは一種の多頭怪物だ.しかし幸運なことに多頭といっても,せいぜい1ダースあるかないか.一つずつ頭を切り落としていけばいい」
「新しい頭が伸びてきませんか」
アフナーが工作管理官の言葉を聞いて連想したのは,ギリシャ神話でヘラクレスが退治したヒュドラのことだった.9つの頭をもったヒュドラは,首を切り落とされても再生する.ヘラクレスは従者の助けを借りてヒュドラの傷口をたいまつの炎で焼いて再生を防ぎ,退治を試みた.だが中心の首だけは不死身だったので,ヘラクレスはヒュドラの首を地下に埋め,その上に巨大な岩を置き封じ込めた.
ヒュドラ同様に,テロリズムはどれほど抑圧されても首をもたげて攻勢をとる.政治的手段を貫徹する強硬な手段として,恐怖心を引き起こす暴力行為は終わりのない無限回廊に陥ることを避けられない.ただ,第一線のテロリストを葬り去れば,次のテロリストが台頭するまでには時間を要するだろう.それまでに組織は一時的に弱体化し,対抗勢力から波状的な追撃をかけられるリスクが増大する.テロ組織は生まれては消え,消えては生まれるものだから,テロとの戦いは結局その繰返しなのである.
一人,またひとりと標的を血祭りにあげていく暗殺チームだが,冷徹無比と信じてきた自分たちにも限界があることを思い知らされることになる.といっても,彼らに非があったわけではない.むしろ遂行は順調だった.しかし,同時進行でアリ・ハッサン・サラメ(Ali Hassan Salameh)暗殺を目論み行動していた他チームの信じられない失態はアフナーらの職業意識をいたく傷つけ,自分たちもPLO側の暗殺者に葬られるのではないかという恐怖に苦悩する.
著者ジョージ・ジョナス(George Jonas)がテロの連鎖と,そこに介在する当事者の人間的恐怖心を省かないのは興味深い.暗殺者は反テロを正当化するために自己の信念を合理化し,暗殺行為が必ず建設的な展開に寄与することを前提とする.テロリズムへの対処は「一罰百戒」,テロリストを恐怖させなければ,殺害に成功しても作戦の意義はない.敵の気勢を殺ぎ,次のテロ活動を躊躇させなければならないからだ.このような理解でチームはオペレーションを開始する.
本書を通じて明らかにされるのは,テロとその報復(Vengeance)が繰り返される定式化されたパターンと,そこから脱出できない構図,暗殺チームの自己目的化された非合法的手段は,テロリストの自己目的化された暴力行為と本質的に変わりはない事実である.国家への忠誠と報復の応酬という狭間で苦悩する若きチームリーダーのジレンマは,物理的な暴力工作に心理的なコミットメントがいかに取り付けられ,また多大な犠牲の後に遊離していくかを炙り出す.当事者の告白をもとに再構成された息詰まるドキュメントであり,水面下で繰り広げられる秘密情報工作の内部をよく伝える好著.
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Title: VENGEANCE
Author: George Jonas
ISBN: 4102231013
© 1986 新潮社