第一次ロシア革命の発端となった血の日曜日事件と,それにいたる労働運動,とくにガポン組合の形成・発展・挫折の過程を精細に分析・解明し,ロシア革命の歴史的性格を明らかにする――. |
ソ連共産党の公式文書(1930年代以降)では,1905年1月9日「血の日曜日事件」――20万人以上のペテルブルグ労働者がツァーリ(皇帝)への請願デモを行ったが,軍隊の一斉射撃を浴びて1,000人近い死者と数千の負傷者を出した――を率いたロシア正教会司祭ゲオルギー・ガポン(Георгий Аполлонович Гапон)を,警察の手先であり挑発者と公認していた.このソ連史学で「通説」とされてきたガポンおよびガポン組合運動の評価を,本書は豊富な事実資料で批判している.1905年革命は,ロシア帝国で最初のマルクス主義政党である社会民主労働党の組織力をまたずに開始され,首都ペテルブルグの労働者大衆運動を指導し革命にいたらせた活動は,ガポン組合を媒介して行われた.
ツァーリに「プラウダ(正義)」実現を直接誓願するために冬宮へ向かった市民に対して,運動が暴力的な革命運動に転化することを恐れた政府は,無差別発砲という挙に出た.ロシア専制に対するガポン組合の形成・発展・挫折の研究のみならず,ロシア前史研究の重要課題を扱う本書は,1957年のスターリン批判後の歴史再検討以前,ロシア秘密警察から資金援助を受けたガポンによる挑発と扇動が皇帝請願の意図であったとする評価がいかに観念的で非合理なものかを論証する.ガポン自身や組合幹部,組合協力者,ガポンと秘密警察――特にセルゲイ・ズバートフ(Sergei Vasilyevich Zubatov)との関係――との関わり,組合発足の諸事情,皇帝請願前夜の様子など,丹念に調べ上げている.
ガポン組合の指導的幹部カレーリン(Карелин)の書簡によれば,1月5日の請願書準備の集会ではガポンは行進に確信をもてず,イニシアチブをとっていない.それを危惧した幹部たちが,ガポン主導を誇張した努力の痕があり,本来「ブルジョア的な政治カンパニア」である皇帝請願と,「プロレタリア運動形態」である請願行進は,同一ではなく起源的にも必然的つながりをもつものでもない.ガポン組合は警察内部で労働運動に介入・統制をはかっていたズバートフ派を排除し,体制側の影響を脱した経過で組織されていくが,その理解を黙殺した結果,血の日曜日事件は,ツァーリ政府挑発と労働者弾圧を意図したガポンによる確信犯的指導の賜物,ということになる.現在では退けられている「ガポン諜者説」だが,警察のコントロールする合法的労働運動の影響を受けたことは疑いなく,労働者の状態の合法的改善と民族意識の鼓吹という点でズバートフ派と歩調を合わせていた.
権力側の御用組織という側面は確かにあったが,左派カレーリン派と綱領を結んだ時期に,ガポン組合がそれをどこまで払拭していたかは分からない.ガポンに資金援助を行っていたズバートフも,ツァーリ体制や秘密警察の言質をどこまでとってガポンを支援したのか.一方では,皇帝の近辺や貴族側でイギリスの議会制民主主義を目指した勢力が,血の日曜日前夜には動き始めていたという説もあり,それをガポン組合がどう判断していたのか.そして,肝心のガポン本人の政治思想の立場がどうもはっきりしない.合法的労働運動と民族意識の文脈では,出身地ウクライナのポルタヴァ独立を模索していたようでもあり,だが社会革命と労働改善に生命を捧げ,自由と幸福,墓場のどちらの道であってもツァーリに絶対服従を唱える請願書を手に労働者の先頭に立った.結局,ロシア革命をもたらしたロシア史に内在する「矛盾の特殊性」と理解すべきことだろうか.
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著者: 西島有厚
ISBN: -
© 1977 青木書店