1920年代初頭のニューヨーク.禁酒法の嵐が全米に吹き荒れる中,二人の少年,ヌードルスとマックスは出会った.やがて二人を慕う仲間たちが集い,彼らの暴走は狂気を帯びていく.友情,愛,裏切り――.これはユダヤ系ギャングの半世紀に及ぶ一大叙事詩である…. |
マフィア映画においては,フランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola)「ゴッドファーザー」(1972)が金字塔であることに異論はないが,イタリア系ではなくユダヤ系のギャング映画として,強力な支持層を形成したとされるのが本作である.厳密にはシチリアの流れを汲む組織的な犯罪集団以外は,「マフィア」とは呼ばれず「ギャング」と呼ばれる.「ゴッドファーザー」とは異なり本作はギャング映画の一角を占めている.それでも,いわゆる「血の掟」(服従と沈黙)を組織が個人に強いるのはイタリア系もアメリカ系も変わらない.
西部劇,マカロニ・ウエスタンで名を馳せたセルジオ・レオーネ(Sergio Leone)が「私の最高傑作」と自認するほど,本作の製作には魂が篭もっている.およそ半世紀にわたる年代をじっくりと描く壮大なスケール,構想14年,キャスティング2年,当時4,000万ドル以上をかけ,マンハッタンのブルックリン橋を遠景に造成された煉瓦造りの建造物,クラシック・カーの群れ――常識的で全うな人生から足を踏み外してしまった男の青年時代から老年時代までを怒り,憂い,衝動,悔恨の情を外連味(けれんみ)なく醸成的に演じ抜いたロバート・デ・ニーロ(Robert De Niro, Jr.)の存在そのものが放つ重厚感.本作では,1920年代から1960年代までの時間の流れをスパンに据え,ギャングの因業が炙り出すように提示される.イタリアのローマ生まれのレオーネが断層の積み重ねで訴えるアメリカの醜い一断面が,すべての帰結の後に残る.
1923年,ニューヨークの貧しいユダヤ人ゲットーで,デヴィッド・アーロンソン(通称ヌードルス)は不良仲間コックアイ,パッシー,ドミニク,モーらとつるんでいた.ヌードルスは,モーの妹で女優を目指すデボラに密かに憧れていた.ヌードルスたちの前に現れたマックスの手引きにより,禁酒法施行を利用して金儲けすることを覚え,グループの利益を共同資金として駅のロッカーに隠すことを取り決める.年少ながらギャング団を結成したヌードルスらは格別の友情で結ばれ,絆を深めていく.ところが,他のギャング団との対立でドミニクが殺され,怒り狂ったヌードルスは勢い余って相手のボスを刺殺してしまった.ヌードルスに課せられた刑期は6年.1931年,出所したヌードルスを待っていたのはかつての仲間,成長したマックスだった.モーの店をモグリの酒場として繁盛させ,デボラも美しく成長していた.デトロイトのギャング,ジョーに引き合わされたヌードルスは,宝石店襲撃計画に加わった.禁酒法時代はやがて終焉し,彼らは次の稼業に手を染める.多発する労働争議への秘密裡の介入だ.そうして徐々に勢力を強めていくが,ヌードルスの心は晴れなかった.デボラの愛を欲していたのである.
アメリカには,現在でもニューヨークのロワー・イースト・サイドやサンフランシスコにユダヤ人ゲットーが残っている.といっても,ナチスの隔離地域としてのゲットーとは趣が若干異なる.1920年代から1930年代は「古き良き日」とアメリカ人が懐古する時代だが,この時代は禁酒法とギャングが威勢を奮った時代でもあった.移民政策を推進したアメリカは,100万人を超すユダヤ人を居住させながら,社会に和合させることはなかった.社会の底辺で身を寄せ合う彼らは,必然的に同じ境遇の者同士で互助するソサエティを形成した.1920年代のニューヨーク,貧しいユダヤ系移民のヌードルスらがギャング団を結成したことは,将来のユダヤ系ギャングの台頭を暗示するものだった.
ユダヤ系は,イタリア系よりも先にアメリカに入植していった.両大戦間の時期は,世界恐慌に見舞われた時期と符合し,禁酒法と並ぶ悪法としての「移民法」により,移民たちはイタリア系,ユダヤ系,アイルランド系を問わず共同体による相互扶助を拠り所とせざるを得なかった.その負の副産物として,犯罪の温床となってギャングの培養に作用したことは見逃せない.1960年代末から1970年代初めに,民主党から離脱したタカ派グループは,「ネオコン」となってアメリカの政財界に絶大な影響力を有している.富裕層のユダヤ・ロビーに支えられ,アメリカの国防・安全保障政策,果ては2001年からのブッシュ政権にはポール・ウォルフォウイッツ(Paul Wolfowitz),ダグラス・ファイス(Douglas Feith),リチャード・パール (Richard Norman Perle)など,多数のネオコンが参入して戦略と政策決定の中枢的役割得を果たした.ヨーロッパに誕生し,全世界で金融・石油・鉱業・マスコミ・軍需産業・製薬など多くの企業を傘下に収めるロスチャイルド財閥が富裕を極めたなユダヤ系の成功例とすれば,対極的に貧困を極めたユダヤやイタリア移民はカポネをはじめとするギャングを生んだといえるだろうか.
レオーネは1929年にローマで生まれ,父は無声映画時代の監督,母は女優という映画人の家庭に育った.父の監督作の助監督を務め,映画製作の修養を積み,1950年代には「ベン・ハー」(1959)の撮影に関わっている.後年,この大作の有名な戦車の戦闘シーンは,自分が撮ったのだと誇らしげだったという.レオーネとハリウッド映画には深いかかわりがある.アメリカに渡って「風と共に去りぬ」(1939)のリメイクをハリウッドのメジャーに提案して断られたこともあり,また50本以上の助監督を務めたが,監督作品としては生涯で7本のみである.しかし,敗戦の苦汁を嘗めさせられはしたが,人種の坩堝的なアメリカとハリウッドの作る映画は魅力的に映った.
本作は,「古き良き時代」を示す「昔々のアメリカ…」を壮大な叙事詩として描き出す.そこにはアメリカの歴史の断面が顔を覗かせ,レオーネにとっては,1920年代のアメリカが最も輝いていた時代に思われた.その追憶を存分に演出できる映画を撮ることを彼は欲していた.温め続けた構想にコッポラの「ゴッドファーザー」にインスパイアを受け,脚本の執筆が開始された.こうして10年を越すレオーネの構想の末,本作は胎動から始動へと移行したのである.
いくつかのバージョンがメディアに記録された作品でもあるが,本作に関しては「完全版」と銘打ったものだけが本物である.というのも,アメリカで公開された当時,製作側の意図で監督の許可なく重要シーンを含め20分以上のフィルムカットが施されていた.オリジナルは時系列が縦横に交差してラストへと集約されていくことで,ヌードルスの心情がクローズアップし終局の場面の余韻を否応なく高める体裁を取っていたのに,ご丁寧にもきれいに時系列を整理して封切りのマスター版とされてしまった.愚挙である.当然,カンヌで先行上映された本作とは別物の印象に貶められ,すさまじく顰蹙を買う映画となって世に出たのである.これに誰より落胆したのは,当のレオーネであった.「製作側がフィルムを切り刻んだ」というわけである.そこで,時系列を元の構成にし,重要なシーンとスコアを監督自身の手で復刻させた「完全版」を満を持して再登場させた.すると,寄せられた評価は一転して大賞賛.エンニオ・モリコーネ(Ennio Morricone)の印象的な音楽とレオーネの長回しの場面の連結が,ひときわ作品に輝きを取り戻させた.
ハリー・グレイ(Harry Gray)という人物が,シンシン刑務所に服役中に執筆された実録が原作となっているが,この人物の素性は謎に包まれている.実名でギャングのスキャンダルを明かしているものだったため,暴露された当事者たちが血眼でグレイを探し回り,偽名と警察の庇護を駆使して逃げ延びたということしか伝わっていない.グレイ本人がヌードルスのモデルとなったとされているから,おそらく原作者もユダヤ移民でゲットー出身だったのだろう.映画の完成を楽しみにしていたというが,完成をみることなく1970年代に死去した.
マカロニ・ウエスタンの巨匠といわれ続けたレオーネは,アメリカの歴史の狭間で呻吟し,悠久の時間を過ごした男たちの浮沈を叙事的に描くことを求め続けた.西部劇の巨匠が,宿願を果たしこの大作を見事に仕上げたことで,歴史に切り込んだ手腕を見せてくれたと映画界に驚きを与え,名匠に名を連ねることとなった.ところが,第二次大戦中のレニングラードの攻防を描く作品の準備を進めていた刹那,心臓病の悪化でレオーネは1989年に世を去った.劇中,1930年代の阿片窟でアヘンを吸い込み,ヌードルスは満面の笑みで眠りに落ちていった.何事もうまくいく,この世の花よ.と独りごちた.だがわれわれは知っている――彼の30年後の姿,苦悩を.儚い夢と時間とは,過ぎたるは猶及ばざるが如きことを苦く噛みしめざるを得ないのである.
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原題: ONCE UPON A TIME IN AMERICA
監督: セルジオ・レオーネ
© 1984 Embassy International Pictures,PSO International,Rafran Cinematografica,Warner Bros. Pictures,Wishbone