▼『ユートピア』トマス・モア

ユートピア (岩波文庫)

 表題の「ユートピア」とは「どこにも無い」という意味のトマス・モア(1478‐1535)の造語である.モアが描き出したこの理想国は自由と規律をかねそなえた共和国で,国民は人間の自然な姿を愛し「戦争でえられた名誉ほど不名誉なものはない」と考えている.社会思想史の第一級の古典であるだけでなく,読みものとしても十分に面白い――.

 想的な世界の展望は,これまで様々な姿をとって模索がなされてきた.哲人政治から民主主義,自由主義社会と理想社会のビジョンが意欲的な展開をみせてきたけれども,その時々において,理想社会の実現が極めて厳格に条件づけられ,そのことがしばしば有害な幻想と糾弾されることにもなってきた.形を変えてそこに存在する人間の自由と規律,それが社会思想とどう結びつけられてきたのかをどう解釈するか.時代の「文芸復興と宗教改革」の二大思潮を背にしたヒューマニスト,トマス・モア(Thomas More)の功績が,今日のユートピア概念に系譜づけられている.

 「無の場所」を示す“ウ・トポス”と「良い場所」を示す“エウ・トポス”を掛け合わせ,“ユートピア”という言葉はモアによって考案された.それはモアがこの言葉の観念的な意味での創造者となったことをも意味していた.理想とされながら存在しない場所,それが転じて実現されえない「理想的な国家体制」を広く意味するようになり,概念が独り歩きして社会運動の標榜に祀り上げられるまでになっていく.

 たとえば,トマス・ホッブス(Thomas Hobbes)は,17世紀に国家権力の誕生を「死すべき神の誕生」と述べた.1651年に主著『リヴァイアサン』序文で述べられたように,自然は神の芸術であり神の中に自然と芸術は一体する.政治の実践に関する国家主権が人為的な営みにおいてなされる神話を,ホッブズ旧約聖書ヨブ記41章に描かれている強大な海獣リヴァイアサンになぞらえ,天地創造の5日目に生み出されたリヴァイアサンを国家に喩えた.ホッブズにより,コモンウェルスは地上の統治を人間が担当し,人間が神になり代わっていずれ神に肉迫する力を蓄えるとみた.その形態が国家なのである.しかし,聖書イザヤ書27章においては,神が最後の審判の日にリヴァイアサンと他の獣を打ち殺し,砂漠の人々の食糧となる.

 ホッブズの考えた国家は,理想的な形で人間の前に忽然と現れるものではなく,しかも宗教は啓示を与える以外の機能を期待していない.この意味で,ホッブズコモンウェルス政治学的な限定をもって国家の枠組みの条件と環境を描き出し,したがってユートピア思想の現れと見ることができる.

 16世紀の西洋の本の題名は,鬱陶しさと手っ取り早さを併せ持っていた.本書の正式名称は“De Optimo Reipublicae Statu deque Nova Insula Utopia”(『社会の最善政体とユートピア新島についての楽しく有益な小著』)と説明されることも多いが,厳密ではない.ラテン語の原文はもっと長いし,その訳は『社会の最善の政体と新しい島ユートピアに関しての楽しく同時に有益な黄金の小著,もっとも有名で,雄弁な人物,トマス・モア,卓越したロンドンの市長,司政長官著』という.当時の題名には本を要約する意味もあり,著者の名前をそこに含めることも一般的だった.

 本書は,ラファエル・ヒスロデイという男がユートピアで5年間生活した経験を,モアらの前で説明する前置き(第1巻),ユートピアの地理的条件,諸社会制度および文化,そして戦争と宗教について縷々説明され(第2巻),最後に,本書を著したモアが友人ピータ・ジャイルズへ送った手紙の内容が記され,そこに本書を世に出していいものか懐疑的な所感が述べられる構成である.ユートピアの地理と文明をざっと紹介すると次のようになる.

 国家ユートピアは,周囲を暗礁に囲まれた500マイル×200マイルの巨大な三日月型の外島の形をとっている.これは外敵を近づけないためであり,建国者ユートパスによってユートピアと大陸の間に15マイルの土地を掘り海水を呼び込んで孤島とされた.この公共事業は,人間が自然を自らの手で改良した黎明でもあった.ユートピアには54の都市があり,首都はアーモロート――「暗い都市」の意.霧のロンドンがモデルとされている――と呼ばれている.各都市は一日で行き来できるよう配慮した地理にある.都市には6,000戸が所属し,計画的に町と田舎の住民の入れ替えが行われる.ユートピアの都市については,一を知れば十を知ることになるだろう.地勢のゆるす限り,すべての都市が酷似している.各市長は都市から選ばれる族長(フィラーチと呼ばれる)からさらに選出された者で,基本的に終身制である.ただし,市長交代が皆無というわけではない.

 ユートピア人は全員農業の熟練者であり,さらに全員が農業以外の特殊な知識を身につけなければならない.毛織,鍛冶,大工,などの知識が主である.衣服は全ての者が共通で丈夫なものを身につけ,最低でもそれで2年間は生活できる.その生活は集団生活で行われ,社会に馴染めない者は奴隷とされる.食事の時間になると喇叭の合図で会館に集い,一斉に食事をとる.この際の労働や人々の世話を行うのは奴隷だが,地域の婦人連の慈善活動も行われている.私有財産,貨幣,国内交易は存在せず,貴金属,特に金は軽蔑され,奴隷の足輪に使用されている.何か必要なものがある時は,共同の倉庫から借りて使う.国民には勤労の義務があるが,労働時間は6時間に抑えられている.また国民の睡眠は8時間が確保されている.労働の合間は自由な時間だが,賭博やそれに類するものなどは無く,ほとんど芸術,科学,音楽などを研究する時間に充てられる.婚姻の倫理を破った者への処罰はかなり厳しいが,それ以外の罪科に対して法規というものは1つも存在しない.

 戦争や略奪行為は国民の非常に嫌う行為であるが,妥当な要求事項の貫徹のためには蜂起する.戦力はまず,あらゆる国から兵隊を雇って戦地に傭兵を送り込む.次に自国の兵と他国の援軍を活用し,最後は自国の市民を戦線に送り出す.ただし,地の利から軽々しくユートピア領土内では戦いを起こさないし,難局に陥ったこともない.宗教はユートパス王の定めにより,信教の自由が認められている.しかし暴力や煽動的な改宗を迫る者は追放か奴隷の刑に処される.一方で,占いや予言は徹底的に軽蔑される.このようにして,ユートピア人の生活は質素で快適,穏やかなものである.

 ユートピアの諸文化,社会制度は,徹底した合理的な理性に基づくものである.自然と技術が結びつき,社会的合理性は道徳・倫理・規範と支え合う.しかし,それゆえユートピアは管理体制を必要とする構造をとらざるをえない.人為的な管理が徹底されることで奪われるものはただ1つ,人間性である.それにもかかわらず,ヒスロデイはユートピアを礼賛してやまないのである.

この国は,単に世界中で最善の国家であるばかりでなく,真に共和国もしくは共栄国の名に値する唯一の国家であろう

 今日のヒューマニストと,中世のヒューマニストはまるで違う.モアがユートピアという言葉を作り出し,理想郷の追求であれディストピア(逆理想郷)の構想であれ,ユートピア概念を産み落としたことには変わりはない.いわゆる人道主義者や人間尊重性とは,まるで関わりのないのが当時のヒューマニズムだった.ヒューマニストとは知識人のことだったのである.まずギリシャ・ローマの古典を精読し,その頃の国際言語ともいえるラテン語で思考することが求められた.現在のヒューマニストと関連があるとするならば,人間を理解しようとする姿勢のみに集約される.文系と自然科学系渾然一体とされていた時代,原著のテキストを新しい視点から読み直し,再構成することを求められた人材でまたその能力を有していた人物.それがヒューマニストだった.

 ビザンツ帝国がトルコに滅ぼされ,貴族や学者らヒューマニストがイタリアに亡命してヴェニスに大勢押し寄せたことにより,当時ヨーロッパ最高の文明国の文化が西ヨーロッパに集中することになり,古典の解読を活発になしていく土壌がはぐくまれていく.これが,文芸復興の祖とされるイタリアに集ったヒューマニストの文化の集結力として作用した.

 その頃,モアはセント・アントニ学院に通った後,ときのキャンタベリ大司教の推薦を受けてオックスフォード大学に入学していた.弱冠15歳.大学の場には,ヴェニスに新しい知識を求め,吸収した後にイギリスで啓蒙を続けていたヒューマニストたちがおり,モアはここで刺激を受けながらギリシャ語を学ぶことができた.1499年の夏,エラスムス(Desiderius Erasmus)との出会いは,その後のモアの人生を大きく変えた.この前後は,エラスムスギリシア・ローマの古典から,聖書と教父などのキリスト教的著作へと関心を移していく重要な時期で,1500年『格言集』,1504年には『キリスト教兵士提要』を出版するなど神学者として精彩を放っていた.1516年に出版された『校訂版 新約聖書』と9巻からなる『ヒエロニムス全集』は高く評価され,当時のエラスムスの評価を決定付けることになる.

 モアが『ユートピア』を出すのは1516年のことだが,当然ラテン語で書かれ,ベルギー,バーゼル,フロレンス,ハノーヴァで出版されていく.モアは大法官の重職につき,側近を務めたヘンリー8世(Henry VIII)のキャサリン王妃との離婚およびアン・ブーリン(Anne Boleyn)との再婚を巡る問題について,数々の進言をイングランド王に行うが婚姻問題を抑止することはかなわず,結果ヘンリー8世教皇クレメンス7世(Clemens VII)と対立を深めた.ヘンリー8世自らをイギリス国教会の長とするとともに,ローマ・カトリック教会から離脱したのが1534年.すでに教皇との対立を決定的にしていた国王は,モアをはじめとする側近を次々に処分する.宗教統一の問題としては,ルター(Martin Luther)の改革がイギリスに及びヘンリーの政策を福音主義の立場から助長し,エラスムスヒューマニズム福音主義の対立は激化した.ここにきて,いよいよモアの立場は危うくなった.

 イギリス国教会の長にヘンリーが就任した翌日,モアは大法官を辞職し,国王の離婚が正式に成立した直後のアン・ブーリン新王妃の戴冠式にも出席を拒否した.1534年,王位継承令への宣誓を拒絶したモアは,ランベス査問委員会の決定によりロンドン塔に幽閉された.国王のイギリス国教会の長兼務に断固として異議を唱え続け,反逆罪により1535年7月6日,断頭台にて「法の名の下に行われたイギリス史上最も暗黒なる犯罪」の犠牲者となり消えたのである.

 イギリス社会の矛盾や狂気は,ヒューマニストの目から見て明らかだった.羊の囲い込みのしわ寄せとして現れた浮浪民の大量発生とその対処は後手にまわり国民不安を放置していたし,そこからくる不衛生,疫病,暴動は理想社会とは程遠い現実だった.そのような無秩序と支配階級の怠慢から着想し,イギリスのモア家に滞在していたエラスムスは,1509年にわずか1週間で『痴愚神礼讃』を書き上げてモアに捧げている.内容は,痴愚の女神モリアが大衆を相手にギリシア・ローマの古典からの夥しい引用,縦横に繰り出される警句とともに辛辣に訴え,諷刺するこの書は,理性的に世の中を批判せよ,いかに愚かなことが世に威勢を揮っているかを鑑みて,痴愚こそ福音である,と強く主張するものだった.モアのヒューマニズムは,『痴愚神礼讃』からの影響を受け,理想とされながらもどこにも存在しない国家,すなわちユートピアの性格を社会思想に意味づけた.実在性のない不知の天地を,諧謔をこめて思想上の特定の含意形成に求めたのである.

 モアがユートピアの実現に力を尽し,イギリスとヨーロッパを侵しつつあった宗教改革の橋渡しをすることで,教条的にも政治的にも政策立案者となったかどうかは定かではない.むしろその可能性は低いと考えるほうが正しいかもしれない.ユートピアが熱をもって今日でも語られ続ける理由とは,逆説的にみて,はじめからユートピアは死んでいたからである.ギリシャに伝わる牧歌的なアルカディアチベットカイラス山にあると信じられるシャンバラ,陶淵明が『桃花源記』の中で描いた桃源郷イスラエルの民に約束された乳と蜜の流れる約束の地カナン,プラトン(plato)対話篇『ティマイオス』『クリティアス』に登場する理想国家アトランティス,遠い海の彼方から豊穣や富をもたらす沖縄の理想郷ニライカナイ…….時代と国を越え,普遍的なユートピアの原型は各地に残り,今も伝わっている.トマス・モア以前の古層にすでに理想社会は千差万別に形成され,モアがその流れを社会体制に結びつけて国家モデルを提示したにすぎない.

 すでに失われたものとして伝承されるさまざまなユートピアは,「架空の,あてにならない夢を真実と思い込む阿片のようなもの」(エンゲルス)であり,「現代とかけ離れたものと理解するのは間違っている」(マンハイム)でもある.ユートピアの熱に浮かされ,人民支配の夢をみたのは支配階級というよりも,知識階級としてのヒューマニストたちだったのである.

 ユートピアは,いわば偶像崇拝である.現存する社会制度の矛盾や欠陥を世に問い,それをいかに改善していくべきかを支える根拠となる信仰に近いものがある.その姿は一様ではない.文化や社会制度からの再検討により,その課題点を堅牢で色彩(干渉色)の強い多様な色でわれわれに姿を見せるものかもしれず,本書は不磨の大典ならぬ不断の練磨を,いついかなる社会においても動態的に求め続ける思想書とみることができるだろう.

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Title: UTOPIA

Author: Thomas More

ISBN: 4003220218

© 1957 岩波書店