▼『恍惚の人』有吉佐和子

恍惚の人(新潮文庫)

 文明の発達と医学の進歩がもたらした人口の高齢化は,やがて恐るべき老人国が出現することを予告している.老いて永生きすることは果して幸福か?日本の老人福祉政策はこれでよいのか?老齢化するにつれて幼児退行現象をおこす人間の生命の不可思議を凝視し,誰もがいずれは直面しなければならない"老い"の問題に光を投げかける.空前の大ベストセラーとなった書下ろし長編――.

 筆当時35歳であった著者は,同じ英単語を調べるのに,英辞典を何度も引かなければならなくなってきた自分に「老化」を感じたという.日本は,1970年から1994年の24年間で,65歳以上人口割合7%の「高齢化社会」から14%の「高齢社会」へと移行した.ドイツが40年,イギリスが47年,イタリアが61年,フランスが115年であったのに対し異例というべき速度である.高齢者の心身の健康の保持や生活の安定を目的として老人福祉法が制定されたのが1963年,それからおよそ10年間で「在宅福祉」の必要性が論じられた.

 限られた財源の中で,国家政策としての「老人対策」は愚鈍なものだった.当時の厚生省の所管課長は,「痴呆老人(当時)の対策は,精神衛生対策」と言明する有様で,精神病院に収容される「呆け老人」は家庭の恥でタブー視されていた.1970年代に福祉予算を大幅に上昇させたオランダでは,社会福祉・文化問題・レクリエーション省の高官ピーター・J・ブロメスティン(Pieter J. Brommestijn)が,超高齢国家に対する警鐘を鳴らした.それは,老人(高齢者人口)を現役世代(生産人口)が扶養する問題は「新しい階級闘争」になるというものだった.

 平均寿命の伸長により,誰しも忍び寄る「老い」が社会的問題となることを,本書で大胆に描き下ろし,大ベストセラーとなった.寝たきり老人のための予算を確保するだけでは,きたる高齢社会に対応できないことが,平凡なサラリーマン世帯で核家族化した一家の苦悩となって描かれる.「もう,殺せよ」.恍惚の人となった義父の息子(夫)に言われ,嘱託殺人罪が脳裏にチラつくほどに追い込まれた妻が,「生きられるだけ生かしてあげたい」と考えを改めるまでの展開は綺麗すぎ,忍び寄る老いの残酷さと人間性の葛藤はぬるい.

茂造は部屋の隅で身体を縮め,虚ろに宙を眺めている.人生の行くてには,こういう絶望が待ちかまえているのか.昭子は茫然としながら薄気味の悪い思いで,改めて舅を見詰めた.彼は精神病だったのか.昭子は夜中から起きてしまって,だから睡眠不足で,そのために頭がまとまらないのだと思った.が,要するに老人福祉指導主事は,すぐ来てくれたけれど何一つ希望的な,あるいは建設的な指示は与えてくれなかった.はっきり分ったのは,今の日本が老人福祉では非常に遅れていて,人口の老齢化に見合う対策は,まだ何もとられていないということだけだった

 社会福祉学の分野で三浦文夫が貨幣的ニードより非貨幣的ニードの対応が現代社会の争点となる,とした予測は,高齢者福祉では認知症高齢者の福祉施設入居問題,児童福祉では保育所の待機児童問題となって現実化してきている.その問題提起に対する適切な応答策が不十分であることを,文学的に切り取った傑作.著者は印税1億円を老人施設に寄付したが,地方税贈与税など9000万円の税金がかかることが判明.税制問題を新聞広告で訴え,再分配の不合理に憤った.

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原題: 恍惚の人

著者: 有吉佐和子

ISBN: 4101132186

© 1982 新潮社