▼『1984年』ジョージ・オーウェル

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

 1984年,世界は三つの超大国に分割されていた.その一つ,オセアニア国では〈偉大な兄弟〉に指導される政府が全体主義体制を確立し,思想や言語からセックスにいたるまで,すべてを完全な管理下に置いていた.この非人間的な体制に反発した真理省記録局の役人ウィンストンは,美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に,思想警察の厳重な監視をかいくぐり,禁止されていた日記を密かにつけはじめるが……社会における自由と人間の尊厳の問題を鋭くえぐる問題作――.

 ップルコンピュータがマッキントッシュを発表し,ロサンゼルスオリンピックが開催され,カール・ルイス(Frederick Carlton“Carl”Lewis)が陸上競技4種目で金メダルを獲得.オーストラリアからコアラ6頭が贈られて日本に初めて上陸し,東京ディズニーランドに1,000万人目のゲストが来園,日本の平均寿命が男女とも世界一になった年.1984年.この年の世界情勢を,1948年の時点でジョージ・オーウェルGeorge Orwell)は夢想し創造した.1948年の4と8を入れ替えたアナグラム1984年は,全体主義国家により,あらゆる人間性を監視される近未来社会の絶望的な圧政を描いた反ユートピアディストピア)小説として,ソ連をモデルにしたと思われるスターリン主義トロツキズムの模倣――偉大な兄弟(ビッグブラザー),テレビと監視カメラが一体になったテレスクリーンによる超管理システム――を,緻密に提示した.

 大衆を弾圧する権力機構の恐怖を描いた本書は「反共」とみなされ,発表当時はレッドパージの最中であった.恐怖の所産はヨセフ・スターリン(Joseph Stalin)の粛清システムと全体主義の腐敗にあることを辛辣に指摘したオーウェルは,生前の20年以上に及ぶ期間,イギリス情報局保安部(MI5)の監視下に置かれ,アナキストとして動向を把握され続けた.現実の1984年とオーウェル1984年はまったく異質な世界の符号を西暦で表すものとされ,彼の創造した社会をオーウェリアンと呼ぶようになった.本書はオーウェルが永眠する直前に書き上げられた最後の著作である.

 1950年代に起きた核戦争後,1984年の世界は3つの全体主義国家(オセアニア,ユーラシア,イースタシア)に分割統治されていた.国家間は紛争地域をめぐり,常に戦争状態にある.物語の舞台はオセアニアに属するロンドン.支配層は偉大な兄弟(ビッグブラザー)と党内局党員及び党外局党員の15%,被支配層は85%という圧倒的多数のプロレ階級である.思想・言語・結婚など市民活動のすべてにわたり統制が加えられ,大衆は極度の貧困状態に晒されている.体制に楯突くことは禁じられているが,その容疑で局員に逮捕された後は裁判なしで尋問,拷問が加えられ,思想改造が行われる.テレスクリーンの設置,言語の制限により思考を抑圧するニュースピークの行使など,家族・友人問わず密告とスパイが横行する管理社会が市民の日常を取り締まっていた.

 オックスフォード出版局『英文学案内』によれば,本書は「寓話形式による諷刺」と位置づけられる.絶望的な末路を辿るスミスの経過は,管理社会の究極的に行き着く先を例示し,暗澹たる可能性を予見させる処刑で終わる.本書はすでに過去の年が舞台となっているわけであるから,現実にその年を生きてきた人々の実感は過去の記憶が邪魔をして,パラレルな印象で終わる懸念は避けられない.しかし,架空の小説でもいくつもの「核」といえる要諦が,国家統制と人民支配のために操作されていることを読み取れる.

 第一に,国民に歴史を周知させないことである.スミスの仕事は歴史の改竄であり,国と支配層にとって不都合な内容は公表されない.国民に歴史を忘却させ,歪曲された歴史観を定着させ反体制の思想形成を阻むことは,恐怖政治の常道である.また,日記すら記録することも禁じられる.「偉大な兄弟」のスローガンの一つは,「過去を支配する者は未来をも支配する.現在を支配する者は過去まで支配する」.

 第二に,実態と表出を一致させない体制をとるということである.政府には4つの省が設けられている.オセアニアの平安を掲げ永久に他国との戦争を行い続ける「平和省」,歴史の歪曲とプロパガンダを管理する「真理省」,最小の水準の資源を国民に供給する「豊富省」,個人の監視と反体制分子の拷問と思想改造を任務とする「愛情省」.いずれも,実態を隠蔽する名称が冠され,国民の福祉と安心に配慮する行政を演出する.まやかしである.

 第三に,造反者に対する徹底的な強圧策により,支配層に相対する思想を破壊し尽くすことである.それは個人の萌芽レベルであるほどよい.この世界は国民が認識しているだけの世界(実体としては異常な超管理社会)であり,そこから外れた思考をもつことは許されない.その者には,拷問と洗脳が交互に繰り返され,真に愛情を偉大なる兄弟に向けられるまでに精神を矯正され,はじめて処刑が許される.死による解放が与えられることも,党利党略に屈伏せしめた後なのである.

われわれは,君の犯した愚かしい罪には興味がない.党は明白な犯罪行為などに関心はない.われわれが問題にしているのは,思想そのものだけだ.われわれはただ敵を破壊するばかりじゃない,彼らを改造してしまうのだ

 オーウェルを20年以上も監視し続けたMI5だが,イギリス国内で破壊工作を取締まるロンドン警視庁特捜部の見解に反して,MI5はオーウェルを先進的共産主義思想の持ち主とは見なしていなかった.ロンドン警視庁特捜部の1942年の報告書では,オーウェルは仕事場でも余暇の場でも,ボヘミアン的ファッションを好み,共産主義の会合によく顔を出していることが報告されていた.しかし,MI5は左派系雑誌に掲載されていたアンケートで,オーウェルの回答が「ソビエトの将来的な予測――第二次大戦後に存続したとしても,ヨーロッパに共産主義の旋風が吹き荒れることはない」とソビエト社会主義の脅威を否定していることに着目し,MI5はオーウェルを先鋭的共産主義思想に傾いていないと判断していたのである.共産主義という妖怪が欧州に蠢いている時代は去り,その再来もないことをオーウェルはすでに記していた.逆にソビエト神話の本質を抉るようなディストピア小説を,『動物農場』『1984年』として発表し,革命と権力の批判を『カタロニア讃歌』『象を射つ』に託して書いた.

 自らの出身階級をスノッブなものと嫌悪し,マンダレイでインド警察訓練所に勤務した経験から,警察の帝国主義の犬としての実態に嫌気がさして辞表を提出,圧政者に敵対するアナキズムに共感を示していく.ルポルタージュ作家,皿洗いなどを兼業としながらパリで身を立てている頃,スペインでは王政を打倒する内乱・内戦が起きていた.1936年末にPOUM義勇軍マルクス主義者統一労働党)にアラゴン戦線分遣隊に伍長として参加し戦ったオーウェルは,反ファシズム勢力内部での欺瞞に憤慨した.彼はそれを『評論集』にその後まとめたが,「人間狩り」と称してコミンテルン・スペイン支部スターリン主義,派遣NKVDによるPOUM義勇軍への圧力,逮捕,監禁,拷問,銃殺をつぶさに目撃し,咽頭部に銃創を受けながらも一命を取り留めた.幸運にもスターリン主義者の弾圧を逃れ,フランスへ帰還.1938年,このスペイン内戦での経験を『カタロニア讃歌』にまとめたが,オーウェルの存命中に版を重ねることはなかった.

 オーウェルは,動乱のスペインとソビエトの政治体制の支配力に晒された自身の経験から,あらゆる人間性を剥奪し,蹂躙した不毛の権力機構への批判を先鋭化したのである.本書では,オブライエンの口を借り,権力支配の目的が幾度となく語られる.それは,オーウェルが人間狩りを目の当たりにしてきたことから生まれた無抑制で,歯止めの利かない独裁的に集中された権力機構の完結型である.

現実というのは外在的なものではないのだよ.現実は人間の,頭の中にだけ存在するものであって,それ以外のところでは見つからないのだ.…中略…集団主義体制の下,不滅である党の精神の内部にしか存在し得ないのだ.党が真実だと主張するものは何であれ,絶対に真実なのだ.党の目を通じて見る以外は,現実を見ることはできない

 「私が物を書く出発点は常に不正を告発したいという党派的感情にある」と,オーウェルは述べていた.そして,「政治を芸術的に描く」ということを貫こうとした.本書は,一部の特権階級が非人道的に支配をなしうる社会的メカニズムの欺瞞を暴こうとした壮大な諷刺である.貧困と不平等を根絶するという高尚なイデオロギーは,支配層に昇りつめた15%の特権階級により,85%の被支配層を収奪し尽くす腐敗しきった社会へと変貌する.美しい魂が政治の枢要に鎮座し続けることの幻想性を,この上ないインパクトで投げかけてくる小説であり,人間性の敗北の陰惨なカリカチュアが帰結として導かれる.オーウェルは,1945年に『動物農場』で名声を獲得したが,1947年に結核に罹り,喀血に苦しみながらも1949年に本書を書き上げた.この年はスターリンの大テロルが沈静化した10年後であった.オーウェルは南部のサナトリウムに移って療養に努めたが,1950年に46歳の若さで死去した.

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Title: NINETEEN EIGHTY-FOUR

Author: George Orwell

ISBN: 4150400083

© 1972 早川書房