■「SAYURI」ロブ・マーシャル

SAYURI [Blu-ray]

 9歳で花街の置屋へ売られた千代は,下女として働いていた.ある日,辛さに耐えられず泣いていた千代は,「会長さん」と呼ばれる紳士から優しく慰められ,いつか芸者になって会長さんに再会したいと願うようになる.時が経ち,15歳になった千代は,芸者の中でも評判の高い豆葉に指導を受け,「さゆり」としてその才能を開花していく.そしてついに,会長さんと再会することになるが….

 ーサー・ゴールデン(Arthur Golden)原作の導入部は,読み手のイマジネーションを喚起させる吸引力をもっていた.ニューヨーク大学アーノルド・ルーソフ講座教授(日本史)の音声記録再生に幕を開けるこの物語は,「ニッタ・サユリ」の神秘的な声を再生することに,ある悦びを感じながら,教授がテープレコーダーの語りだす類稀な表現力に耳を傾ける.だが想像力同士の間に横たわる軋轢,それは文化の習性や理解度の相違から兆すものだ.ゴールデンの描いた"GEISHA"の世界観は,日本の耽美的な文化に心酔しただけでは得られない限界がある.日本の花街柳巷(花柳界)は,歌・踊り・三味線などで宴席に興を添える「芸者」,歌や芸で客をもてなし,公娼の務めも果たす「娼妓」の両方を含む東洋的接客婦の業態である.

 現代中国語「藝妓」では,日本でいう娼妓のニュアンスがことさらに強い.ゴールデンの小説は,文体の美しさにも助けられ,これらの違いをさほど意識することなく読める.ところが映画化に際しては,チャン・ツィイー(Zhāng Ziyí),ミシェル・ヨー(Michelle Yeoh),コン・リー(Gong Li)ら中国,台湾の女優が臆することなく「芸者」を演じている.スティーヴン・スピルバーグSteven Spielberg)が映画化権を取得してから,「さゆり」役のオーディションが開催され,ニューヨーク在住のダンサー岡本理佳が内定していた.小説のモデルとされる元芸者が,出版時期,人物が特定される描写を巡りゴールデンを提訴するトラブルがあり,岡本は降板となっている.オリエンタルな雰囲気さえ出せれば,女優は近隣アジア諸国出身でも問わないとされたのだ.

 たとえば日本人からみてイラク,イラン,シリアといった国々の民族の外見的特徴は(一般論として)判別し難い.ペルシャ,アラビア,アラブは地政学的にも言語的にも様々な相違点があるが,馴染みのない国ではピンとこないのが実情である.日本と中国,台湾に関しても同様な印象が――大部とはいえないまでも――欧米圏にはある.作中で芸者が纏う衣装は豪華絢爛.しかし“いき”な島田髷に引摺り,詰袖の着物にしては華美に過ぎ,いかり肩のアジア女優が本来のたおやかさを殺いでいる.反面,オーディションに訪れたほぼすべての日本人女優にはないバイタリティが,役を掴んだ彼女たちにはあったという.漁師の娘が京都の祇園に売られ,運命の大波に逆らうことなく,特殊な世界に適応して生きた生涯.苦難の波を泳ぎきる過程で仕込みから押しも押されもせぬ人気芸妓に成り上がっていく過程は,繊細な佇まいに秘めた心意気よりも,ある種の獰猛さが必要であったということだろう.

 この手の取捨選択は,日本はこれまで嫌というほど味わってきた.海外の映画製作者が主導権を握った映画の場合,兎にも角にもついて回る悩ましい問題である.本作をもって「日本人蔑視」と読み解くのは,穿った見方だとは思うが,映画でエスニシティーを発揮することの難しさは,他国が自国をどう捉えているかの解釈に依存している.そう再認識した印象が何より強い.きわめてハリウッド的なスタッフが描き出した"GEISHA"なだけに,依然ステレオタイプを覆すには至らない日本の美的感覚の伝わりにくさが後に残る.確かに,小津作品が国際的名声を得たとしても,グローバルな色彩を前面に出す監督が侘(わび)と寂(さび)を"imperfect"で納得してしまう(まさに侘しさ)ことは,理解の圏外なのだ.

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原題: MEMOIRS OF A GEISHA

監督: ロブ・マーシャル

146分/アメリカ/2005年

© 2005 Columbia Pictures Corporation, et al.