喜怒哀楽とともに,誰しも無縁ではいられない感情「嫉妬」.時に可愛らしくさえある女性のねたみに対し,本当に恐ろしいのは男たちのそねみである.妨害,追放,殺戮.あの英雄を,名君を,天才学者を,独裁者をも苦しめ惑わせた,亡国の激情とは.歴史を動かした「大いなる嫉妬」にまつわる古今東西のエピソードを通じて,世界史を読み直す――. |
辞典『大字源』に掲載されている女偏の漢字は211字あるという.「好」「嫌」をはじめ,感情を表す漢字の偏に用いられるのは女部が圧倒的に多く,それ自体,女性に仮託された観念を窺わせる.通し狂言「摂州合邦辻」で,嫉妬のため愛する男に毒を盛る玉手御前のように,嫉妬に狂う女性の髪は逆立つほど,その情念は凄まじいと悪しざまに風聞される.しかし当然,男性も嫉妬に狂い踊らされる.
国際関係史とイスラーム研究を手がけてきた著者は,イスラーム最大の歴史学者イブン・ハルドゥーン(Ibn Khaldun)と同じく,国家や地域間の嫉妬に目を向ける.島津久光から妬まれたのは西郷隆盛と大久保利通.天才的な戦略家石原莞爾を締め上げ,“マレーの虎”こと寺内寿一元帥をサイゴンの南方総軍に追いやった東条英機は,努力の官僚肌であった.自分と同列格,あるいは自分より劣位にあると感じていた人物が称賛を受けたとき,男の嫉妬は燃え上がる.
奇妙なことだが,異性に対しては激しい嫌悪で済むはずの感情が,同性に対しては憤怒と殺意を強烈に生じさせる.ヒエラルキーの中での裁量権を拡大することに,人は躍起となる.競争心の乏しい者は,従属を自動的に選択したに過ぎないのであるから,組織員としては明らかな劣敗者となる.高い能力を備えれば,周囲からの羨望と嫉妬は避けられない.しかし,謙虚で誠実な人格を磨くことが,嫉妬を遠ざけることになると本書はいう.
能力面での嫉妬はそれで一定の抑制がなされるだろう.ただし,人徳を備えた人にも,烈しい嫉妬は向けられることを忘れるべきではない.徳と評判が強固に結びついている場合,そのような人を貶めることは恥ずべきと周囲に印象付けることが,嫉妬にチェック‐アンド‐バランスを機能させるのであろう.猜疑は恐怖から生まれる人心の弱さを見抜き,愚鈍を演じつつ「隙を見せない」の一事に尽きるのである.
++++++++++++++++++++++++++++++
原題: 嫉妬の世界史
著者: 山内昌之
ISBN: 9784106100918
© 2004 新潮社