▼『尾瀬』後藤允

尾瀬: 山小屋三代の記 (岩波新書 黄版 263)

 尾瀬を拓いた平野長蔵が沼畔に山小屋を建てて九十余年.以来,長蔵小屋の親子三代は,つつましく自然と「共生」する道を模索してきたが,ときには電力会社による取水に,ときには自動車道路の建設に,身を挺して闘うことを余儀なくされもした‥‥三代の肖像を,いくたびも破壊の危機に瀕してきた端正な自然を背景に描く――.

 本有数の湿原地帯であり,その自然美は四季折々に異なる表情を見せる.5月には水芭蕉が咲き誇り,10月には紅葉が美しい.幾多の池沼と湿原が広がり,多様な動植物群落を育む尾瀬は,「水郷」と呼ぶにふさわしい魅力を持つ.尾瀬は,1949年の尾瀬ヶ原ダム計画と1971年の尾瀬山岳道路建設計画という二度の大きな危機に直面した.これらの計画は,尾瀬の自然環境を大きく変えかねないものであった.

 尾瀬の自然を守ろうとする「長蔵小屋」一族の運動により,これらの危機は乗り越えられた.尾瀬の西・沼尻に「長蔵小屋」を建てたのは,山岳信仰者である平野長蔵である.彼が1890年にこの小屋を建てたことが,尾瀬自然保護運動の始まりとなった.ダム建設や観光客誘致と道路計画に対する反対運動を孤独に開始し,その精神は息子や孫にも受け継がれた.

 長蔵の運動は,やがて植物学者の武田久吉や長蔵小屋の二代目である平野長英らの民間人の協力を得て,尾瀬保存期成同盟(後の日本自然保護協会)の結成へとつながった.彼らは,自然と「共生」する道を模索し続け,つつましい生活を送りながら尾瀬の保護に努めた.尾瀬特別天然記念物の生息地としても知られており,色とりどりの植物と昆虫たちが織りなす風景は,青空によく映え,その美しさは多くの人々を魅了する.

 本書は,国家施策の時流に呑まれない三代にわたる尾瀬保護の記録であり,同時に「区画としての自然」の脆さを表明している.産業振興が盛んな時代にあって,尾瀬の水利開発を食い止め,その自然を現在に残した平野長蔵とその一族の努力は,今後も語り継がれるべき貴重な歴史である.尾瀬の美しい景観と多様な生態系は,彼らの尽力によって守られたのである.

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原題: 尾瀬―山小屋三代の記

著者: 後藤允

ISBN: 9784004202639

© 1984 岩波書店