▼『いちげんさん』デビット・ゾペティ

いちげんさん (集英社文庫)

 京都の大学で日本文学を専攻する留学生の「僕」.目の不自由な若い女性・京子と知り合い,次第に彼女と恋に落ちていく‥‥第20回すばる文学賞受賞のセンシティブな恋愛小説――.

 都の祇園では,「いちげんさんお断り」と表記している店が少なくない.これは初めての来客を断るという意味であり,なじみの客だけで営業を存続させる意思表示である.かつて,店の料金は月末払いが基本であり,信頼関係に基づいて「ツケ」で商品を購入し,月末に支払いが行われた.このような背景から,初めての客には保証人の紹介が必要だった.この手順を踏んで初めて,店に入る資格を得ることができたのである.著者はスイス生まれでありながら,見事な日本語で書き上げている.

 高い語学力には感心させられるが,京都の閉鎖的な風習に愛想を尽かした外国青年のアイロニーが物語の核となっている.だが言語能力にばかり目を奪われては,本質的な評価に結びつかない.物語は,盲目の女性,京子と京都の街で恋愛する「僕」の視点で描かれている.「僕」は京子と心を通わせるうちに,なぜ彼女にだけ心を安んじることができるのか気づき始める.それは,彼が常に京都人から好奇の目にさらされているのに対し,京子だけは外見で判断せず,言葉と体の触れ合いで「僕」の心を確かめてくれたからである.だが,その気持ちを正確に彼女に伝えることは難しい.

 一瞬の迷いのあと,口をつぐんだ「僕」には,埋められない悲しみが漂っている.やがて,異文化を拒絶する街で唯一受け入れてくれた京子との間にも断絶が生じる.その苦しさをどうすればよいのか.大学の卒論に取り組む「僕」は,友人の言葉「知的マスターベーション」を思い出す.自己の存在を無視する文学作品を研究することは,想像力を働かせて自己満足に耽ることと本質的には同じ,と友人は言った.大学のばかげた対応で,「僕」は学位取得を断念することになる.

 京都の街は「いちげんさん」を受け入れてはくれない――限界までそう感じた「僕」は,京子に別れを告げる決心をするのだった.ベルリンの壁崩壊をニュースで見て,京都から自分に向けられた「心の壁」を破るために放浪を決意するという描写には説得力が欠ける.閉鎖的な空間にいる間にも世界では大きな変動が絶え間なく起こり,それを凝り固まった狭い世界にいては体験しえないという皮肉的な意図は理解できるが,読者を引き込むには不十分なのである.

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原題: いちげんさん

著者: デビット・ゾペティ

ISBN: 4087471454

© 1999 集英社