▼『心猿』石川達三

 白い滑らかな肌と豊かな肉体‥‥加代の美しさは,農村の男たちの,強い欲望と賛嘆の中で花開いた.17歳の春,母親と不倫の関係を持った男と通じて流産,彼女は,不良少女の悪評を負って東京へ出た.昭和6年,享楽の風潮が風靡する東京.満州事変を迎えて,時代は,大きく動き始めていた.肉体以外の男を知らず,肉体以外の自分を考えられぬ一女性の流転の生活を,冷徹な筆致で,昭和初期の世相の中に描く,長編野心作――.

 くの男性の欲情を掻き立てる女性の存在と,その関係のおびただしい遍歴が,わめき騒ぐ猿の様子になぞらえ「心猿」と形容される.農家の生まれながら,桁外れの美しさをもって成長していく加代は,多種多様な立場・年齢の男性の欲望の対象となる.生来的にモラルを掻き乱す魔性が,加代には備わっている.

 石川達三は社会的な規範を追求する作品を多く著したが,一方で,本書のように個人的モラルの崩壊を扱った作品も多く書いた.様々な男性を転々とするうちに,加代の性情は荒んで汚れがつけられていく.その官能性が,流転の人生の袋小路に落ち込む最終までを,石川は描いていない.

 男について故郷の農村を遠く離れる前半が過渡期なら,やはり別の男について,満州に移住する思いつきに雀躍する後半は,2度目の過渡期.その後の彼女の人生は,いつまでも危うさを孕んだまま推移していくであろうことを匂わせ,収束観もないままに小説は終わってしまう.メタフィクションの素材としては面白いかもしれない.

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原題: 心猿

著者: 石川達三

ISBN: 4041097010

© 1973 角川書店