▼『モハメド・アリ』トマス・ハウザー

モハメド・アリ――その生と時代(上) (岩波現代文庫)

 アリを語る.それはひとりのボクサーでなく,ひとつの時代を語ることである.沸き起こるブラックパワー,泥沼化するヴェトナム.揺れ動く60年代アメリカのなかで,その男の横溢する生は時代と激しく火花を散らし,重なり合っていった.アリ自身をはじめ二百余名のインタビューから描く,圧巻の決定版評伝――.

 真好きだったマルコムX(Malcolm X)は,首から下げたカメラでモハメド・アリMuhammad Ali)を好んで撮影した.1963年にソニー・リストン(Charles "Sonny" Liston)との死闘を制してヘビー級王座を獲得したアリのため,1964年に開かれた祝賀パーティでは,興奮状態で目を剥くアリの傍で微笑むマルコムXの姿が別の写真に収められている.その手にはハーフカメラが握られていた.鋭い知性と雄弁術により,ゲットーに住む黒人たちをエンパワメントしたマルコムXは,「人種融合」をほのめかす白人リベラル派やワシントン大行進に象徴される黒人公民権運動の黒人指導者たちの偽善と欺瞞を許さなかった.マルコムXの信念に共鳴したアリは,アフリカ系アメリカ人イスラム運動組織ネーション・オブ・イスラムNOI)の信徒であることを公表し,1964年2月25日に本名「カシアス・クレイ」を「モハメド・アリ」に改名すると発表した.

 アリのボクシングキャリアは新たな高みに達していたが,改名は自らのアイデンティティを確立し,白人社会の押し付ける価値観に対抗するための重要なステップであった.アリは,NOIの一員として,アフリカ系アメリカ人の自尊と自己決定を強調した.1967年にアリは徴兵を拒否し,その理由として「ベトコンはオレを"ニガー"と呼ばない.彼らには何の恨みも憎しみもない.殺す理由もない」と述べ,アメリカ国内の人種差別に対する抗議として戦争に参加しないことを表明した.この行動はアリにとって大きな代償を伴うものだった.アリは9回防衛したタイトルを剥奪され,1967年にはベトナム戦争への徴兵を拒否したことで,裁判でも有罪判決がくだされたが,1971年,アメリ最高裁判所は満場一致でアリへの有罪判決を覆した.

 著者は,歳月が経つにつれアリを顕彰する公共の捧げ物が続々と生まれ,アリの名前を付けた通りや公園,トロフィー,賞牌,その他のさまざまな賞が設けられたとしても,これらの形ある捧げ物だけではアリを正しく評価することにはならないと述べている.アリの真の遺産は,彼が存在したことで世の中がよくなり,人々が良くなったことである,と.力強く明け透けな自己表現に,アリは何世代にもわたるアフリカ系アメリカ人の威厳と自己決定権の象徴として求心力を発揮し続けた.さらにアリはスポーツの枠を超えて,ポップカルチャーや政治においても重要なアイコンとなった.

 特異な自己表現とパフォーマンスは,社会的・政治的メッセージをアスリートとして伝えることの重要性を浮き彫りにし,後世代のアスリートに大きな影響を与えた.1968年夏期五輪で陸上競技選手トミー・スミス(Tommie Smith)とジョン・カーロス(John Wesley Carlos)が黒ソックスと黒スカーフを着用し,黒手袋をはめた拳を突き上げて人種差別に抗議した「ブラックパワー・サリュート」はその象徴であった.2002年,アリはハリウッド大通りのウォーク・オブ・フェイムに星を刻んだ.彼の星だけは,歩道ではなくアワードウォーク入口の壁に刻まれている.アリが自分の星はどうか地面には刻まないでほしい,予言者モハメドの名前を誰も踏んではならないと主張したからである.

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Title: MUHAMMAD ALI - HIS LIFE AND TIMES

Author: Thomas Hauser

ISBN: 4006031122, 4006031130

© 2005 岩波書店