二〇一七年二月,旅行客で賑わうクアラルンプール国際空港で,一人の男が二人の女に神経剤VXを塗りつけられ,殺された.「キム・チョル」名のパスポートを持ったその男の正体は,北朝鮮の最高指導者金正恩の異母兄,金正男だった.彼はなぜ殺されたのか,なぜマレーシアだったのか,実行犯二人は何者なのか‥‥現地警察,実行犯の家族,そして金正男の友人まで,二年半にわたる綿密な取材が炙り出す,白昼の暗殺劇の真実――. |
国家安全保障戦略研究所(INSS)によると,2011年から2016年にかけ,朝鮮労働党総書記金正恩は数十件の処刑を命じたと伝えられている.金正恩政権は,北朝鮮内部の政権基盤を強化するために,反対勢力や潜在的な挑戦者を徹底的に排除してきた.その最たる例が,2013年の叔父張成沢の処刑である.張は「反党,反革命的派閥行為」を理由に「人間の屑」「犬以下」としてレッテルを貼られ,残忍な処刑方法(高射砲での処刑)が採られた.このような厳しい手段を用いることで,金正恩は内部での権威を誇示し,恐怖政治を通じて政権の安定を図っている.2017年2月,金正恩の異母兄・金正男がマレーシアのクアラルンプール国際空港で神経剤VXを使って暗殺された.この事件は,金正恩が自らの権力を守るために,どのような手段も辞さないことを示している.
金正男は,金正日と本妻の間に生まれた「白頭血統」の長男であり,本来であれば金正日の後継者になるべき存在だった.しかし,2001年の偽造パスポート事件以降,金正日は正男を後継者として適任ではないと見なしたという.金正男はフランス語に堪能で,西側への開放を提案するなど,北朝鮮の現体制に対する批判的な見解を持っていた.このような背景から,金正恩にとって金正男は潜在的な脅威とみなされていた.韓国の国家情報院によると,正恩は2012年から異母兄の殺害を指示していたという.正男の存在が,北朝鮮内部や外部からの挑戦を煽る可能性を排除するため,正恩は一連の暗殺計画を継続していたことが伺える.金正男の暗殺は,北朝鮮の国際的な孤立をさらに深める要因となった.2017年11月,米国は北朝鮮をテロ支援国家に再指定した.この決定には,金正男暗殺事件が大きく影響したとされる.
北朝鮮は,国外での暗殺を含む様々な国際テロ行為に関与してきたとされ,その一環として金正男の暗殺が位置づけられている.また,2017年6月に昏睡状態で解放され,帰国後に死亡した米国人学生「オットー・ワームビア事件」も,北朝鮮が国際社会に対してどれほど危険な存在であるかを浮き彫りにした.金正男暗殺事件の実行犯とされたのは,ベトナム国籍の女性とインドネシア国籍の若い女性2人であった.彼女たちは,「いたずら番組」に出演するという偽装のもと,空港で金正男の顔に猛毒VXを塗り付けた.彼女たちは,自分たちが暗殺に加担しているとは知らず,カメラマンを装った工作員に欺かれていた.事件後,マレーシアと北朝鮮の関係は急激に悪化し,両国は互いの大使を追放する事態に至り,マレーシア政府は,事件の捜査中に北朝鮮からの圧力に屈し,正男の遺体を北朝鮮に返還するという対応を迫られた.
金正恩の権力維持には,粛清と処刑が不可欠な要素となっている.彼は,父金正日や祖父金日成と同様,反対勢力を容赦なく排除することで,絶対的な権力を維持している.金正男暗殺はスタンディング・オーダー(継続命令)であり,事件の6年以上前から何度も計画され,実行されてきた.暗殺劇は,正男の長男金漢率を利用することが考えられる反体制派の動きを牽制することに成功した.漢率もまた父と同じ運命を辿る恐れから,アメリカ中央情報局(CIA)の介入によってアメリカに保護されている.漢率はオックスフォード大学大学院への進学を予定していたが,暗殺の恐怖から留学を断念せざるを得なかったという.金正男暗殺事件は,北朝鮮の権力闘争と国際関係における冷酷な現実を浮き彫りにした.金正恩政権は,内部の安定を保つために過酷な粛清を行い,外部には強硬な姿勢を示し続けている.韓国メディアにより,自由朝鮮の手引きで漢率はアメリカに滞在していると報じられているが,彼の所在地は明らかにされていない.
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原題: 追跡 金正男暗殺
著者: 乗京真知,朝日新聞取材班
ISBN: 9784000613866
© 2020 岩波書店