「ガス室はなかった」などの何度も繰り返されるアウシュヴィッツを巡る"嘘"を分析しながら,その歴史を平易に概説した,まさにアウシュヴィッツを考えるうえでの基本図書――. |
恣意的な解釈で既存の歴史観を覆そうとする「歴史修正主義」は,ホロコーストを巡る論議で活発化してきた.本書で推定されるアウシュヴィッツ収容所の犠牲者数は,アウシュヴィッツで26万1,000人,アウシュヴィッツ・ビルケナウでは100万人.収容所に連行された500万人のうち,8割にあたる400万人が殺害された.あるいは,他文献では「600から650万人」と,相当な幅をもって論じられる.ドイツ右派急進主義の特定勢力は,「過去の克服」(Vergangenheitsbewaeltigung)を巧みに宣伝している.
絶滅収容所で行われた行為は,公式にはドイツ国内でナチス犯罪追及センター,国外ではニュルンベルク国際軍事裁判の追及で疑念が払拭されてきた.その結果,ナチスの犯罪に対する時効が撤廃され,1985年6月の第21次刑法改正により,ナチスを無実とする活動は「侮辱罪」にあたることが定められた.シオニズムのイデオロギーに与する者は,ネオ・ナチの集会に出かけ,虐殺を矮小化し事実を闇に葬る活動に勤しむ.彼らが正当な歴史研究の手法を踏襲することはない.アウシュヴィッツの存在そのものを否定する文献を捏造し,先行文献の改竄にも手を染める.
ティル・バスティアン(Till Bastian)は,ホロコーストの実態を論文集『想起すること――医学と大量殺戮』(Stuttgart,1992)で検証してきた医学者.ノーベル平和賞を受けた「核戦争防止国際医師の会」のドイツ支部長でもある.ポリティカル・コレクトネス(宗教的,人種的,性別的に中立)とは無縁の「修正主義」は,かつてニュルンベルク国際軍事裁判法廷で,ナチス幹部による絶滅政策・大量虐殺の決定は「歴史的必然」と居直ったテーゼと同じ構造を保持している.
ナチスを後顧の憂いとするドイツ国民にとって,その“功罪”について無知な世代が台頭しつつある.解決とは,低劣と看做されたスラヴ人の「整理」であり,「大量殺戮」以外に解釈の余地はないとされた事柄(通説)について,異議を唱えることは問題ではない.本書でバスティアンと邦訳者たちが危惧するのは,時間の経過とともに「反事実」的資料が洗練され,事実を捨象する力を蓄えていくことにある.それにより,何が<嘘>であるかの峻別の眼を曇らせることである.
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Title: AUSCHWITZ UND DIE "AUSCHWITZ-LUGE"
Author: Till Bastian
ISBN: 4560720800
© 2005 白水社