▼『復讐するは我にあり』佐木隆三

復讐するは我にあり 改訂新版 (文春文庫 さ 4-17)

 列島を縦断しながら殺人や詐欺を重ね,高度成長に沸く日本を震撼させた稀代の知能犯・榎津巌.捜査陣を翻弄した78日間の逃避行は10歳の少女が正体を見破り終結,逮捕された榎津は死刑に‥‥綿密な取材と斬新な切り口で直木賞を受賞したノンフィクション・ノベルの金字塔を三十数年ぶりに全面改訂した決定版――.

 16代合衆国大統領エイブラハム・リンカーンAbraham Lincoln)が,執務の合間に自分の靴を磨いていた.それを見咎めた秘書は,「大統領閣下ともあろうお方が,そんな卑しい仕事をなさるものではありません」と諫めた.リンカーンは静かに答えたという.「世の中に卑しい仕事などない.ただ卑しい人がいるだけだ」――このエピソードは虚構かもしれない.だが,人道主義の考え方としては正しい.現実の世界はどうか.大統領の職権と,靴屋の職権は社会で同等に尊ばれるわけではない.官僚,政治家,法曹,大学教授など,「社会的威信」を誇示する職業と,そうでない職業が世の中に並存している.

 1963年,福岡県を発端とし単独犯による連続強盗殺人事件は,北海道まで列島を縦断してケースを重ねた.神出鬼没,78日間にわたる逃亡の末に逮捕された西口彰は,大学教授や弁護士を騙って複数の女性を事件に巻き込み,詐欺と窃盗行為にも手を染めた.社会的威信を犯罪に転化させた西口は,犯罪の凶悪さと巧妙さを両立させていた.史上初の重要指名被疑者の公開手配にもかかわらず,早期解決に至らなかった.彼の素性を暴き,逮捕の決め手となる情報を提供したのは,わずか10歳の少女だった.まだ眼が「曇って」いない年端のいかぬ子どもだったのである.著者は,殺人の被疑者として逮捕・12日間拘留された経験がある.

 塀の内外の人間の様態に向いた関心は,トルーマン・カポーティ(Truman Garcia Capote)のような「ノンフィクション・ノベル」の確立に接近していく.西口(本書では榎津巌)の犯罪の「痕跡」をまず示し,次に犯罪にいたる「軌跡」を淡々と述べていく.“西口彰ノート”と題された取材ノートは,10冊を超えた.新約聖書ローマ人への手紙:第12章第19節には,「主いい給う.『復讐するは我にあり,我これを報いん』」とある.罪への制裁は人の手ではなく,神の手によって行われる.相対的でもあり絶対的な俯瞰,神の視点こそがノンフィクション・ノベルにはふさわしい.社会における威信や効力で,人の目はしばしば欺かれる.圧倒的な想像力の賜物を否定するわけではなく,本書では,異なるアプローチを採用したのが事実である.

 著者は「想像力の怠惰」が,事実の“うなて”を生むことを嫌った.捜査の記録,関係者の証言を隈なく拾い集めることで,実存的なロマンスに決別を図る務めであった.実際の犯罪を調査し,刊行物として世に出す場合,被害者や加害者の家族に影響を及ぼす.犯罪者の人格形成を探る上では,家族の取材も避けることはできない.本書の題材では,西口の父親を前に著者の足は竦んだ.恐怖や不安からではない.高齢で小さな背中,病に臥す人を,取材者が追い詰めてよいものかという葛藤ゆえである.意に反して,その場から取材者である自分が,一度は逃げるように立ち去った.本書の題名は,著者自ら「ゆるしの秘跡」を背後に置いて設定したものとも読めるだろう.

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: 復讐するは我にあり

著者: 佐木隆三

ISBN: 9784167215170

© 2009 文藝春秋