▼『退屈の小さな哲学』ラース・スヴェンセン

退屈の小さな哲学 (集英社新書)

 人はなぜ,退屈することがあるのだろうか.どうして,自らの意思で退屈したり,また上手に退屈を乗り越えたりすることができないのだろう.現代人のほとんどが,退屈や倦怠感の経験を持っているにもかかわらず,ハイデッガーなど一部の哲学者をのぞいて,これまで真剣に考えられることは少なかった.本書は,広く一般の人向けに,哲学,文学,アート,心理学,社会学などさまざまな分野の文献を参照しながら,退屈という身近で不思議な現象をしなやかに探究していく――.

 退屈という現象が単なる時間の無駄遣いに留まらず,深遠な存在論的問題に直結することを論じている.人間は千差万別の価値観を持ち,生活の中で様々な形で退屈に直面する.その中で,退屈が深刻化すると「実存として限界のある状況」にぶつかり,「存在の問題」が提起される.これにより,我々は自己の意味を再考し,究極的には生の意義を問い直すことになる.ラース・スヴェンセン(Lars Fr. H. Svendsen)によれば,退屈はしばしば「存在の問題」を提起する.これは,人生における意味を見失い,存在そのものを問い直さざるを得ない状況を指す.

現在は孤独を肯定的に見る人は少ない.オード・マルクヴァルドが言うように,人間はかなりな程度「孤独の能力」を失ったからだろうか.孤独の代わりにあらわれたのが,すべてを自分に引き戻す傾向で,この自己中心主義は僕達を他人の視線依存症にしている.僕達は自己を主張するために視野を一杯に埋めようとしている

 小説『魔の山』の主人公ハンス・カストルプは,7年間の無気力状態から脱出する際に,個人的な奮起ではなく,戦争の勃発という外的要因によりその状態から解放される.これは,個人が内発的なエネルギーだけでは退屈から抜け出すのが困難であることを示唆している.「退屈」という概念をさらに掘り下げると,「意味が見いだせない状態」として捉えられる.セーレン・キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard)は,退屈を「悪魔の汎神論」と呼び,感情と意味の欠落が引き起こす恐れととらえた.

 退屈は単なる感情の欠如ではなく,存在の深いレベルでの意味の欠如を示している退屈は存在そのものを揺るがすものであり,意味の欠如が内在的な脅威となる.一方,ロマン主義の観点からは,退屈は意味の追求を阻害する許し難い「敵」であった.ロマン主義は,文学,芸術,思想における自由解放を唱え,神秘的な体験や無限のものへの憧れを追求する.退屈は時間を無為に費やし,自己実現を妨げる最大の障壁である.初期キリスト教の教父たちは,退屈の祖先としてラテン語の"acedia"(不機嫌)を最大の罪とし,諸悪の根源と見なしていた.

 教会の教父たちにとって,退屈は神への敬虔な生活を妨げる障害であり,これに打ち克つことが信仰者の使命であった.退屈は精神的な怠惰を引き起こし,魂を腐敗させる悪徳という考えに基づいている.本書は,退屈が単なる一過性の感情ではなく,人生そのものに重みを与える存在であると主張する.退屈を排除するのではなく,それに対する哲学的なアプローチを探ることが重要である.本書は,制圧的な解決法を提供するのではなく,退屈という現象を理解し,それを人生の一部として受容するための哲学的な素描である.

大きな瞬間――人生における本当の大きな意味(存在論的認識)――は,欠如という否定的な形でしか存在せず,小さな瞬間――恋愛や芸術,陶酔における(退屈を晴らす瞬間)――は,決して長続きしない.重要なことはまず,短い瞬間があるだけで,人生はその間にたくさんの退屈を提供してくれるということを受け入れるということだ

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Title: KJEDSOMHETENS FILOSOFI

Author: Lars Fr. H Svendsen

ISBN: 4087202909

© 2005 集英社