早稲田大学を出てアニメーション制作会社へ入ったごく普通の青年がいた.駆け出しながら人気アニメ作品の演出にも携わるようになったが,24歳のある日を境に,仕事場では突飛な大言壮語をし,新聞記事を勝手に自分宛のメッセージと感じ,また盗聴されている,毒を盛られるといった妄想を抱き始め‥‥四半世紀に亘る病の経過を患者本人が綴る稀有な闘病記にして,一つの青春記――. |
スイスの精神科医オイゲン・ブロイラー(Eugen Bleuler)は,妄想や幻覚,そして原因が特定できない多様な症状を示す患者たちの症例を集め,これらの症状が思考と人格の「分裂」に本質を持つと考えた.この考えに基づいて,彼は「統合失調症(Schizophrenia)」という用語を造り出した.「Schizo」はギリシャ語で「分裂」を意味し,「Phren」は古代ギリシャで魂が宿ると信じられていた「横隔膜」を指している.この新しい用語は,思考と感情,行動の分裂を示している.
1984年,アニメーション制作会社「亜細亜堂」に入社した著者は,その後のキャリアの中で,著名なアニメ作品の制作に関与することとなる.しかし,彼の人生は1987年に大きく変わることとなった.7月25日から27日まで,著者は初めて精神病院に入院した.この入院の直前,彼は5日間にわたる日記をつけていた.その内容は壮絶であり,何者かが「世界はお前のためにある」というシグナルを送り続けているという感覚に見舞われ,通常では使わない思考回路が開かれ,自己の脳内でしか知覚できない現実を作り上げるに至ったという.
すれ違う人が皆,僕に殺意を持っているような気がして,「殺さないで下さい.殺さないでください」と会う人会う人に頼みながら歩いて行った.相手は僕に会釈するような態度をとったが,今にしても思えば,僕を「アブナイ人」と判断し,目をそむけていたのだろう.何を思ったか,近くにとまったそば屋のバイクのおかもちを開け,中から数本の割り箸を取り出し,その意味するものを必死で考えた.これも何かの暗号のはずだった
著者は,支離滅裂な誇大妄想に支配される自身の精神を朧げながらも理解し,多幸感や恐怖感,そして被害妄想が重層的に押し寄せる体験をした.その記録は,思考の崩壊過程を文章化したものであり,論理的には破綻しているものの,独特のまとまりを持っている.本書は,幻覚や妄想の状態に陥り,精神神経科に入院した著者の個人的な体験を記している.退院後も著者は職場に復帰したが,1988年に退社し,その後も数回の入退院を繰り返すこととなった.
本書は,統合失調症の急性期における幻覚や妄想を完全に説明しているわけではない.しかし,著者が経験した異常な現実感覚は,読者に強烈な印象を与える.本書を通じて,統合失調症がどのようにして個人の思考や感情を侵食し,現実を分裂させるかが垣間見えるだろう.この病気は,単なる精神の崩壊ではなく,複雑で多層的な現象であり,患者が経験する世界は独自の論理と現実感を持っている.
++++++++++++++++++++++++++++++
原題: ボクには世界がこう見えていた―統合失調症闘病記
著者: 小林和彦
ISBN: 9784101354415
© 2011 新潮社