戦後,一度は封印されたはずの「優生学」が奇妙な新しさをまとい,いま再浮上している.これまで人類は,優生学的な思想により「障害者や移民,ユダヤ人といったマイノリティへの差別や排除,抹殺」を繰り返してきた.現代的な優生学の広がりに大きく寄与しているのが「科学の進歩」や「経済の低迷」,そして「新型コロナウイルスの感染拡大」である.優生学の現代的な脅威を論じる――. |
科学は公正で客観的な知識を提供する手段であるべきだが,優生学の歴史はその逆の例を示してきた.優生学は19世紀末から20世紀初頭にかけてナチス・ドイツによる人種浄化政策で極端な形態を取り,科学界で広く非難されるようになったが,現代においてもその影響は依然として残っている.現代の優生学において最も論争の多い側面の一つは,出生前スクリーニングを使用して遺伝的異常を検出し,選択的中絶を行うことである.アイスランドではダウン症と診断された妊娠のほぼ100%が中絶されており,これはナチ時代の優生学に似た現代の優生学の一形態であると批判する声も大きい.この現象は,遺伝的異常を持つ子供を産むことの社会的,経済的負担を避けるために行われているが,その背後には深刻な倫理的問題が存在する.
CRISPRなどの遺伝子編集技術の登場は,優生学に関する議論を再燃させた.これらの技術は遺伝病を排除する可能性を秘めているが,「デザイナーベビー」や人間の特性の強化に対する倫理的懸念も引き起こしている.遺伝子編集を用いて特定の外見や知能,運動能力を持つ子供を作り出すことが可能になると,新たな形の不平等や差別が生じる可能性がある.また,遺伝子編集が一部の富裕層にのみ利用可能となった場合,社会的な格差がさらに拡大する恐れもある.さらに,強制的な不妊手術は広く非難されているにもかかわらず,世界の一部では依然として続いている.これは,公衆衛生や経済的利益の名の下に正当化され,障害者,貧困層,少数民族などの疎外された集団を標的としている.
体外受精(IVF)や着床前診断(PGD)などの生殖技術の進歩は,親が遺伝的欠陥のない胚を選択することを可能にするものであり,深刻な遺伝病を防ぐことが期待される.一方で,人間がどの程度まで生殖を制御すべきか,望ましい特性を選択することの潜在的な乱用についての倫理的ジレンマも提起する.多くの形質,特に知能や性格などの複雑な形質は,多数の遺伝子の相互作用によって決定される.単一の遺伝子によって支配される単純な形質とは異なり,これらの複雑な形質は多因子遺伝(polygenic inheritance)の影響を受けるため,優生学的アプローチではこれらを簡単に制御することはできない.
優生学は科学理論として客観的な批判を受け入れず,自らの前提を絶対的真理として扱う.科学的な理論は,常に新たな証拠や批判によって検証され,修正されるべきであるが,優生学はこの点で科学的な態度を致命的に欠いていた.科学論を装った「疑似科学」が政治体制に結びついたとき,優生政策による抹殺が引き起こされる.この歴史的事実は,科学の倫理的な使用とその潜在的な乱用についての重要な教訓を提供するものだ.例えば,安楽死・尊厳死や新型コロナウイルス感染症への対応においても,優生学の影響が見られる.本書は,これらのテーマに対する著者の持論を現代的な「脅威」として述べるが,優生学史の俯瞰的解釈と論証の断片的な紹介にとどまっているため,「優生学=極右の学問」という表向きには制圧されてきた教条的ドグマが,依然として「浄化」されていないことの考察には残念ながらまったく役に立たない.
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原題: 「現代優生学」の脅威
著者: 池田清彦
ISBN: 4797680695
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