▼『さゆり』アーサー・ゴールデン

さゆり 上 (文春文庫 コ 16-1)

 小さな漁師町で育った娘・千代は,昭和のはじめ,9歳で祇園置屋に売られる.その愛らしさが仇となって先輩芸妓から執拗ないじめを受け,また姉と故郷に逃げようと企てて失敗,たちまち苦境に立たされる.そんなとき,忘れがたい運命の出会いが――.

 いがたい魅力を持った女は,その吸い込むような眼差しで人々を魅了する.その魅力に引き寄せられるのは人間だけでなく,数奇な運命も呼び寄せ,幾重にも重なる運命の輪が彼女の人生に影響を与える.しかし,紆余曲折が彼女の行く末に陰を落とすことになろうとも,それがさらなる魅力の一部となり,彼女の輝きは一層増していく.この物語は,ニューヨーク大学ルーソフ講座教授(日本史)の音声記録再生から始まる.ルーソフは「ニッタ・サユリ」の神秘的な声を再生することに「悦び」を感じながら,そのテープレコーダーから流れる類稀な表現力に耳を傾ける.ノンフィクションのような導入であるが,これは完全な創作であり,作者の想像の産物である.

 「花柳界」という一般の外国人には馴染みのない世界を描き出し,その世界に息づく人々の生活感を見事に活写していることに驚嘆せざるを得ない.日本の耽美的な文化に心酔し,いまだにその魅力にとりつかれているアメリカの作家によって生み出された,芸妓にまつわるおとぎ話である.1920年代生まれの日本女性の人生を,1950年代生まれのアメリカ男性であるアーサー・ゴールデンが仕立て上げたことについて,著者は苦心を述べている.リアリティを追求することと,優れた世界観を構成することの間には,重なる部分とそうでない部分がある.

 著者は,日本の花柳界のしきたりや風習を可能な限り調べ上げ,土着的な日本文化を物語の背景にしようと努めた.しかし,花柳界の現実を写実的に描くことは避け,外国人の視点であるハンディを「仕方がないもの」として割り切っている.さゆり,初桃,豆葉,“おかあさん”,“会長さん”等,登場人物はどれも類型的で,ありがちな人物造型である印象は拭えない.物語の起伏も容易に想像がつくものであるが,駄作と呼ぶほどの作品には仕上がっていない.この物語は,運命の大波に逆らうことなく,世界に適応して生きた女性の生涯を追うものである.

 漁師の娘が京都の祇園に売られ,「さゆり」と命名され,苦難の波を泳ぎきる過程で仕込みから押しも押されもせぬ人気芸妓に成り上がっていく.この展開は陳腐ではあるが,様々な局面で彼女は独自の人生訓を導き出し,その都度挿入される比喩が実に素晴らしい.すとんと腑に落ちるような表現が,場面を強く印象付けるのである.物語の大筋で読者を引きつけることは難しいかもしれないが,葉脈のように本筋から派生し,伸びている微細な表現が蓄積することで,読者はさゆりの苦難や成功が,古くて新しいテーマに結びついていることに気付くことができるだろう.それは,細部に神が宿ることの何よりの証なのである.

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Title: MEMOIRS OF A GEISHA

Author: Arthur Golden

ISBN: 4167661845, 4167661853

© 2004 文藝春秋