▼『わたしの「女工哀史」』高井としを

わたしの「女工哀史」 (岩波文庫)

 『女工哀史』の著者細井和喜蔵(1897-1925)の妻高井としを(1902-83)の自伝.十歳で紡績女工になった著者は,労働運動を通じて和喜蔵に出会い,自らの体験を生きた資料として提供した.大正昭和の時代,貧しさのなか,ヤミ屋や日雇いで子を育てながら,福祉を求めて闘いつづけた生涯の貴重な記録――.

 想は生身の人間に結びつき,具体的な形で結実する.シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil)は,労働によって外的に強制される一切の力に対して疑い,抵抗し,実践する中で,特異な体験の中に絶対性を求め続けた.細井和喜蔵『女工哀史』に貢献した著者の女工体験もまた,社会告発を主張する生活史であり,思想と実践が結実した例である.細井は,女工寄宿舎を「豚小屋」と表現し,「豚小屋」に生きる女工たちがどれほど無権利状態で放置され続けたかを暴露した.細井の妻であった著者は,岐阜の揖斐川上流の炭焼きの子として生まれ,父の出稼ぎ先の静岡で小学校に通い,満10歳5か月で大垣女工となった.

街の人たちは私たちのことをブタだ,ブタだといいますが,なぜでしょう.それはブタ以下の物をたべ,夜業の上がりの日曜日は,半分居眠りしながら外出してのろのろ歩いているので,ブタのようだというのです.私たちも日本人の若い娘です.人間らしい物をたべて,人間らしく,若い娘らしくなりたいと思いますので,食事の改善を要求いたしましょう

 著者は吉野作造の論文に感激し,上京して亀戸で労働運動に加わり,細井和喜蔵と出会う.彼女は女工・女給としてその生活を支えながら,『女工哀史』の事実上の共著者となった.細井とは事実婚を選ぶが,細井は3年後に病没した.再婚相手は労働運動家高井信太郎であり,結婚後19年で西宮空襲により高井とも死別する.著者は何度も検挙された高井を支えながらヤミ屋となり,7人の子を育てるも,2人は早逝した.留置場にいる夫に差し入れを持って行き,断った特高を怒鳴りつけ,戦後は暴力団事務所へ単独で乗り込み,組長に啖呵を切った.著者の生活史は,山村生活から女工,戦前の労働運動から戦後の失業対策運動・母親運動に至るまで,多岐にわたる.

 これらの経験は,『女工哀史』における女工全体の搾取・虐待の非人間的処遇に苦悩し呻吟する一個人としての女工生活の実態の記録に資するものだった.日常の中に喜怒哀楽を見出すことができる「個性と人格」を持つ女性の生活世界をリアルに口述し,資料を提供したことで,著者は『女工哀史』の「事実上の共著者」となった.細井は「これだけは石にかじりついても書きあげるのだ」と言い続け,1925年8月18日に急性腹膜炎で死去するまでに大著を完成させた.細井の死後,山本実彦(改造社社長),後の総理大臣片山哲プロレタリア文学者藤森成吉は,内縁の妻には相続権がないという論理を押し通し,寡婦となった著者に印税相当額を渡すことを拒み続けた.

 細井の著作『女工哀史』『奴隷』『工場』の印税が基金となり,青山霊園に「解放運動無名戦士墓」が設立された.現在も日本国民救援会が管理し,毎年3月18日(パリ・コミューン記念日)に追悼祭が行われている.『女工哀史』には女工の契約書の書式が収録されており,女工名はほとんどが「細井としを」または「堀としを」になっている.著者は細井の未亡人であることを明かさずに工場で働き,戦後に結成した全日本自由労働組合の活動で,日雇い労働者の健康保険制度,教科書無償化闘争,託児所や乳児院の設立など闘争に尽力した.

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原題: わたしの「女工哀史

著者: 高井としを

ISBN: 4003811615

© 2015 岩波書店