日本文化を世界に紹介して半世紀.ブルックリンの少年時代,一人の日本兵もいなかったキスカ島,配給制下のケンブリッジ,終生の友・三島由紀夫の自殺‥‥齢八十五に至るまでの思い出すことのすべて――. |
日本永住を決断したドナルド・キーン(Donald Keene)は,雅号「鬼怒鳴門」を記者会見で披露し,「これは人を笑わせる時に使います」といって笑いを誘った.三島由紀夫は,キーンを「快活で,いたずらで,皮肉で,多少意地悪なユーモアを含む」と評していた.永井道雄や嶋中鵬二と親交を結び,後に谷崎潤一郎,川端康成,永井荷風,大江健三郎,安部公房など,日本文学の「大家」と交流したキーンは,16歳でコロンビア大文学部に入学する.入学後のセミナーで,たまたま席を隣り合わせた中国人留学生が『論語』を彼に勧め,"漢字"の言語的フォルムに興味をもったことが,日本への関心につながっていく.同大教授で詩人マーク・ヴァン・ドーレン(Mark Van Doren)から古典文学研究の手法や文学作品の鑑賞法の手解きから,古典が古典であるゆえんを考えなさい,という教えに強く感銘を受けた.
大学院の講座で日本思想史を担当していた角田柳作から朱子学派,陽明学派などの思想を学んだキーンは5年後,江戸時代中期の経世家本多利明をテーマに修士論文を書いた.ニューヨーク・タイムズスクウェアの古本屋にてわずか49セントで叩き売られていた『源氏物語』を購入,その世界観と文体のうつくしさに仰天したのが18歳の時である.平安の恋愛絵巻を生み出したオリエンタルな国が,勝ち目のない大戦にすべてを投じていたことに好奇心を抱いた.海軍の日本語学校で翻訳と通訳の候補生を養成しているのを知って応募,採用され,後に海軍将校となり,ガダルカナル,アッツ,レイテ,サイパン,沖縄の戦場で戦死した日本兵の日記などを解読する任務が課せられた.「時に堪えられないほど感動的で,一兵士の最期の日々の苦悩が記録されていた」.日本の古典文学から現代文学の全般に精通し,その美しさに魅せられたことから始まった日本文化の探求は,高名な文学者たちと交遊を深め,文学の普遍を理解する審美の精神にまで高められたのだろう.
一番大切なものは,同じままである.たとえば『源氏物語』を読むと,そんな気がする.私たちの生活が千年前の貴族の生活といかに大きく違っていても,この小説が自分のことのようにわかるのは,紫式部が描いた感情の数々が私たち自身のものであるからだ.愛,憎しみ,孤独,嫉妬その他は,生活様式がいくら変わろうとも不変のままである.『源氏物語』であれシェイクスピアであれ,昔の文学を読む大きな楽しみの一つは,時空を超えて人々が同じ感情を共有しているのを発見することである
親交を結んだ文豪の中で,三島由紀夫との交友が最も濃密だった.「怒鳴門鬼韻」「魅死魔幽鬼尾」「三島雪翁」「未揣摩幽鬼夫」.互いの書簡に書かれた署名である.築地本願寺での三島の葬儀委員長をつとめた川端康成のノーベル文学賞と三島の自殺を巡る醜聞が,本書第3部にはある.キーンはもちろん,スウェーデン・アカデミー会員ダグ・ハマーショルド(Dag Hjalmar Agne Carl Hammarskjöld)も『金閣寺』で三島の受賞をほぼ確信していたが,三島は受賞を逃した.三島は,川端の受賞を潔く称賛していたが,キーンは三島の落選に疑念を抱いた.問題は,この年の文学賞についてスウェーデン・アカデミーが参考意見を求めた人物の存在にある.この人物とキーンは,1957年の国際ペンクラブで知り合い,1970年5月にコペンハーゲンの共通の友人宅で再会している.政治的には保守思想であったこの人物は,三島は過激派思想の持ち主と思い込み,彼を退けて川端を選ぶよう強く選考委員に働きかけ,これを承服させたというのである.
左翼の過激派と思われた三島が,文学の最高栄誉を政治的に剥奪された疑惑を,あろうことかキーンは三島本人に伝えた.三島は静かにこの話を聞くだけだったというから,逆に秘めた怒りが伝わってくる.ノーベル文学賞を受ける望みが,三島を自殺から遠ざけていた,と本書にはある.その望みが打ち砕かれ,ライフワーク四部作「豊饒の海」が完成させたため,自決が現実のものとなってしまった――とはいうものの,老醜に怯え続けていた三島は,老いる前に自死することを自身の不文律としていたから,受賞したならば「有終の美」としてやはり自決しただろう.一方の川端は,受賞の重圧で会心の作を生み出すことができず,日本文学の国際的名声を高めるための活動に入り込む.1972年秋に開催されるはずだった外国人日本文学研究家会議の発起人だったが,開催6か月前に72歳で自殺した.キーンは,本書第3部の最後に大岡昇平の見解を紹介している.「ノーベル文学賞が三島と川端を殺したのだ」.
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原題: ドナルド・キーン自伝
著者: ドナルド・キーン
ISBN: 9784122054394
© 2011 中央公論新社