親鸞は一生を庶民的な生活に徹し,念仏を守り続けた.戦乱や疫病,政権変動の中でも真実を求め『歎異抄』を通じて念仏の教えを伝えた.彼の教えは死後の問題を浄化し,大衆に広まった.阿弥陀仏の真の姿は形を持たず,大慈悲により様々な形で救済に現れる――. |
生涯にわたり,在家で庶民的な生活に徹し,禁令や念仏弾圧にも屈せず,念仏を放棄することはなかった.親鸞は度重なる戦乱,疫病,変動する政権の時代を生きながらも,真実を求め続けた.晩年の弟子が編んだ『歎異抄』は,人のあるべき姿の真理を伝え,それが本願念仏の世界に体現されている.大衆に広まった「念仏」が示そうとしているのは,仏門の願いであると考えられる.権力者たちが真に恐れたものは現世には存在しなかった.彼らは殺戮によって鎮圧できるのならば,そのために全力を尽くした.一片の良心を持たなかった武将たちが寺を建て,死者の供養をねんごろに行ったのは,自分の死後の恐怖を少しでも和らげたいという願いからだった.念仏の教えが急速に庶民に浸透していった理由の一つは,死後の問題を浄化できることを説いたからである.もともと仏教の前には階級が存在しないとされていた.貴族,庶民を問わず同様に救われる教えを,親鸞は「群萌」と呼んでいる.磨き上げられた花ではなく,雑草を意味している.その雑草であっても,阿弥陀仏の光を受ける利益に優劣はないということである.
阿弥陀仏の本質とは何か.浄土真宗の本尊には木像,絵象,名号の3種類があるが,いずれも立像で坐像はない.立像が崇められたのは,『感無量寿教』で極楽浄土の願いに応えた釈尊が16種の観法(瞑想法)を授けた際,大衆をすぐにでも救いに行く大悲の表れとみなされたからである.特に16番目の観法では,臨終に善智識により念仏を唱えれば往生できると説かれている.しかし,この姿が阿弥陀仏の真の姿というわけではない.本来は色も形もない存在であるという.姿を変え,救済に現れる阿弥陀仏が,凡夫にも確認できる形相を取るとき,そこに大慈悲があると考えるのである.釈尊はその阿弥陀仏を大衆に導くと考えられた.親鸞の主著『教行信証』には,「それ真実の教をあらわさば,すなわち大無量寿経これなり」とあり,『正信偈』には「釈迦如来がこの世に生まれられた目的は,ただ,弥陀の本願のみを説かんが為なり」とも記されている.釈尊は,阿弥陀仏の使いの者としてこの世に現れ,阿弥陀仏の本願を説くということ,そして,阿弥陀仏の本願は人々を幸福に導くこと以外に目的はないと親鸞は信じた.
親鸞の生涯には葛藤も伴った.自分の生い立ちについてはほとんど語ることのなかった親鸞だが,藤原氏の一族,日野家の出身であることが定説である.藤原氏に仕えた家柄であったが,高貴な家ではなかった.親鸞の曽祖父は公卿になれず,祖父は従五位下に留まり,家系から外されている.父は「皇太后宮権大進」という肩書きを持っていたが,あまり恵まれた地位ではなかった.この役職は,清少納言の『枕草子』に辛辣に描かれている.「みるにことなることなき者の文字にかきてことごとしき物」(第147段),つまり見た目には平凡だが漢字で書くと大層なもの,として皇太后宮権大夫が紹介されている.そこからさらに2階級下の皇太后宮権大進は,清少納言から見れば全く重要でない役職であった.親鸞は9歳で出家した.親ではなく叔父が付き添って出家儀礼を行い,兄弟4人全員が出家したこと,日野家が源平の抗争に巻き込まれる必然性がなかったことなどから,親鸞の一族ではなく肉親に変節があり,子ども全員が出家したと見る向きもある.しかし,母の死を機に「人は死ぬとどうなるのか」と悩みぬいた松若丸(親鸞の幼名)が,人の命の儚さを桜の花にたとえ,比叡山での修行に打ち込む僧の道を選んだことは自然な流れであった.親鸞はその縁を持っていたのである.
親鸞の宿業観は,個人の心で善悪を論じても,所詮それは計らいに過ぎないとする考えに基づいている.よって,「自身の業」ではなく「業の自身」に内観される人間存在の道を求めることを説いた.これは彼の終生変わらない信念であり,また生涯をかけて求めた道であった.本書に度々登場する「ロゴス」と「パトス」という概念について,筆者の理解はロゴスを「論理」,パトスを「情緒」としているが,その用法は的確ではない.第1に,頻度があまりに高すぎる.さまざまな場面で反復して用いるには,「ロゴス」と「パトス」は適切ではない.第2に,これらを二項対立として扱うのは乱暴である.ロゴスとパトスは対義的な関係にはなく,パトスの対義語は「エートス」である.アリストテレス(Αριστοτέλης Ονάσσης)が弁論をロゴス・パトス・エートスによる説得に分けて論じたように,これら三者は切り離して論じられるべきではない.エートスは持続的な性格や道徳的慣習を意味し,パトスは受難や激情を意味する.ロゴスは概念・意味・論理・説明・理由・理論・思想などの多元的な意味を持つ.したがって,パトスとロゴスは必ずしも対立するものではない.単に「論理」「情緒」として用いることは無理があると考えるべきだろう.親鸞の思想の本質に迫るために筆者が用いたこれらの用語は,ア-プリオリな理解が不十分であるため,コンテクストにアンバランスさをもたらしている.
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原題: 親鸞―その人と思想
著者: 菊村紀彦
ISBN: 4390116207
© 1997 社会思想社