■「大統領の陰謀」アラン・J・パクラ

大統領の陰謀 [Blu-ray]

 ある夜,ウォーターゲート・ビルに侵入した四人の窃盗犯が現行犯逮捕された.単なる強盗と思われたこの事件だが,ワシントン・ポストの記者ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインは数々の疑念,妨害を乗り越え調査を進めていく.そして,これがのちに合衆国大統領ニクソンを失脚させる一大スキャンダルへと発展していくのだった….

 政の中心である大統領府には,形容しがたい「見えない渦」が存在し,それに近づき呑まれた者は,独自の思考回路を持つ人間へと変容するという.政治家やその秘書,外交官がその典型例であり,政治のキャスティングボートを握るジャーナリストもまた,この渦に飲み込まれた人々の一部である.伏魔殿とも称されるホワイトハウスに潜むその「魔物」を暴き出すことに成功したのが,「ワシントン・ポスト」紙の記者,ボブ・ウッドワード(Bob Woodward)とカール・バーンスタイン(Carl Bernstein)である.彼らの取材によって,1970年代最大の政治スキャンダル「ウォーターゲート事件」が明るみに出された.この事件により,CIAやFBI,現職大統領を含む国家機関が国家犯罪と陰謀に関与していたことが暴露され,結果としてリチャード・ニクソン(Richard Milhous Nixon)は辞任に追い込まれることとなった.

 この事件を基に製作された本作タイトルは,マザー・グースの童謡からの引用であり,「オール・ザ・キングスメン」(1949)のタイトルをもじったものである.本作では,ウッドワードとバーンスタインウォーターゲート事件の真相を追い求める過程が描かれており,ニクソンが1974年に弾劾手続きを受け,辞任に至るまでの経緯が描かれている.製作は1976年で,映画のラストは再選を果たしたニクソンが2期目の就任演説を行うところで終わるが,当時のアメリカ市民にとってはその後の展開は広く知られていたことである.ウォーターゲート事件の調査はFBIによって行われたが,ニクソンはCIAに捜査の妨害を指示し,非公式に組織された「大統領再選委員会」による不正行為や証拠隠滅が行われていた.しかし,「大統領がウォーターゲート・ビルにCIAのスパイを直接送り込んだか否か」という事件の最大の焦点については,法的に確定する証拠が提出されなかったものの,政権は決定的な打撃を受け,最終的にニクソンは弾劾手続きの結果,辞任に追い込まれたのである.

 ジョンソン政権末期,リンドン・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)大統領は,ベトナム戦争の長期化により国民の不満が高まり,再選の可能性が低下していることを自覚していた.政権は北爆の全面的凍結とアメリカ軍の順次撤退を表明したが,国内では巨額の財政赤字が問題化していた.このような状況の中,ニクソン政権が誕生し,ウォーターゲート事件が発生する背景が整う.この事件は,アメリカの自由な選挙制度とプライバシーを守る市民権に対する攻撃としても位置づけられ,アメリカ社会の民主主義そのものが揺るがされた.ニクソンは猜疑心が強く,大衆の人気に過敏に反応し,人気の低下に対して憤りを募らせていた.ホワイトハウス内のあらゆる会話を録音していたニクソンは,CIAに捜査の妨害を指示した際のやり取りもテープに記録しており,最終的にこのテープが致命傷となって政権を去ることになった.アラン・J・パクラAlan J. Pakula)は,事実を淡々と追う映像と編集技術を駆使し,アメリカの権力中枢に侵食していた腐敗の様相を描き出した.この手法は,後に「ゾディアック」(2007)で参考にされたが,1970年代当時の政治家や要人に馴染みがなければ,鑑賞者には理解するのに膨大なエネルギーが必要となる.それでも,ワシントン・ポストの編集部と2人の記者の熱意は観る者を引きつけてやまない.

 エヴェレット・ハワード・ハント(Everrette Howard Hunt Jr.)は,元CIA職員であり,ウォーターゲート事件の中心人物とされていた.彼は事件当時,ニクソンの側近として実行犯を指揮していたが,2007年に亡くなった.ハントは,ウッドワードとバーンスタインに情報を提供した「ディープ・スロート」として疑われた人物の一人であったが,その正体は2005年に明らかになった.事件当時FBI副長官だったマーク・フェルト(William Mark Felt)である.フェルトは「バニティー・フェア」誌で,自分がディープ・スロートであることを告白した.ディープ・スロートという名前は,1970年代に話題を呼んだリンダ・ラヴレース(Linda Lovelace)主演のポルノ映画から取られたものであり,ニクソンは「Tricky Dick」と呼ばれる不名誉なあだ名を持っていた.このため,ニクソンを陥れた情報提供者を「ディープ・スロート」と呼ぶようになったのである.ウッドワードとバーンスタインは,ディープ・スロートの正体が本人の死亡まで秘密にするという約束を守っていたが,フェルト本人が正体を明かしたため,2人もそれを認めた.フェルトが情報をリークした理由には,ニクソンの猜疑心と贔屓に対する反発があったとされる.

 ウォーターゲート事件が起きる直前の1972年5月,48年間FBI長官を務めたジョン・エドガー・フーヴァー(John Edgar Hoover)が死亡し,フェルトは次期長官への昇進を望んでいたが,ニクソンはパトリック・グレイ(L. Patrick Gray)を長官に任命した.この人事はFBIの体制がフーヴァー派からニクソン派に移行する兆しであり,フーヴァー派がニクソンの失脚を狙ったのではないかという憶測がある.映画の制作当時,大統領だったジェラルド・フォード(Gerald Rudolph "Jerry" Ford, Jr.)は,次期大統領選が終わるまで映画の公開を遅らせるよう指示を出したが,ウッドワードとバーンスタインはその著書でニクソンを批判する言葉を一度も発していない.彼らの姿勢は,国家権力が犯罪に加担しているならば,その究明に最善を尽くすというものであり,報道の公正を守るために政権の先行きを論評しないことを貫いた.

 映画の冒頭,「1972年6月1日」というタイプライターのカットは,タイプ音に銃声を合成した音響効果がなされており,ラストシーンでは2人の記者がタイプライターを叩き続けるシーンがそのシーンと対になっている.これは「権力にワード(言葉)をもって挑む」という意味を象徴している.テレビで演説するニクソンに対して,2人が指を突き付けるシーンは非常に印象的である.この映画で,ウッドワードを演じたロバート・レッドフォード(Robert Redford)のハンサムで知的な佇まいと,バーンスタインを演じたダスティン・ホフマン(Dustin Lee Hoffman)の鋭い視線と熱意溢れる演技は,この作品を象徴するシーンとして記憶されることとなった.実際にディープ・スロートにコンタクトを取っていたバーンスタインは,情報提供者に関するどんなわずかな情報も漏らすことがなかったという.フェルト本人から自分が張本人だと明かされたウッドワードは「肩の荷を下ろした気分だ」と語り,バーンスタインは「心の中に“愛しい何か”を失ったような気がする」と述べた.フェルトが正体を明かした背景には金銭的な理由があった.

 一旦,権力の溝に待ち構えている渦に魅せられた者が身につけた思考回路は,権力から離れても閉じることはないという.歴史的スキャンダルとその背後にある腐敗したイデオロギーを暴いたウッドワードとバーンスタインは,政治的圧力にも屈しなかった功績が認められ,ワシントン・ポスト紙とともにピューリッツァー賞を受賞した.ウッドワードはワシントン・ポスト紙編集主幹,バーンスタインニューヨーク大学教授を経て,ワシントン・ポスト紙副編集長に就いた.国民を欺くリスクを顧みず,利権のためには何をも犠牲にする政治モラルのなさに拒絶を突き付けた報道は,リークと告発行為で権力を撃つ「調査報道型」ジャーナリズムの模範を示した.「調査報道型」は1970年代末まで黄金期を築いた.

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原題: ALL THE PRESIDENT'S MEN

監督: アラン・J・パクラ

138分/アメリカ/1976年

© 1976 Warner Bros. Pictures,Wildwood