■「ブラック・スワン」ダーレン・アロノフスキー

ブラック・スワン [Blu-ray]

 ニューヨーク・シティ・バレエ団のバレリーナ・ニナは,純真で繊細な“白鳥”と,妖艶に王子を誘惑する“黒鳥”の二役を踊る「白鳥の湖」のプリマドンナに大抜擢される.しかし優等生タイプのニナにとって“白鳥”はともかく,悪の分身である“黒鳥”に変身することは大きな課題だ.初めての大役を担う重圧,なかなか黒鳥役をつかめない焦燥感から,精神的に追い詰められていくニナ.さらにニナとは正反対で,“黒鳥”役にぴったりの官能的なバレリーナ・リリーが代役に立ったことで,役を奪われる恐怖にも襲われる.ニナの精神バランスがますます崩壊する中,初日は刻々と近づいてくる….

 畑で花を摘んでいた娘オディットは,悪魔ロッドバルトによって白鳥に変化させられる.夜だけは人間の姿に戻ることができるオディットを見初めた王子ジークフリートは,真実の愛だけが彼女の呪いを解くことを知る.世界有数の踊り子が集う華麗な舞踏会で王子の前に現れたのは,オディットに化けた悪魔の黒鳥オディールだった――ドイツの作家ムゼーウス(Johann Karl August Musaus)の「奪われたべール」を元に構想されたバレエ《白鳥の湖》は,白鳥/黒鳥を同一のバレリーナが演じる.32回のフェッテ(黒鳥のパ・ド・ドゥ)を披露する技巧の難もあるが,ダーレン・アロノフスキー(Darren Aronofsky)が着目したのは,白鳥と黒鳥の姿色に秘められた「統合性」にあった.アロノフスキーがAFI(American-Film Institute)の学生だった頃,映画化したい原案の一つに本作のスクリプトがあった.しかし,案はまだ煮詰まっておらず,「最高の芸術」と評価されることもあるバレエの演者と,「最低の芸術」と冷笑されるプロレスラーの共通点と交錯を描きたいという段階に留まっていた.

 両者は心身を極限まで「演技」に費やすカルマに苦悩する点は類似しているが,1つの企画で描きこむことは不可能と判断し,「レスラー」(2008)と本作に分離されることになった.リング上では獣のように咆哮し,レスリング以外の人生を見知っている男性の苦悩を描いた「レスラー」に対し,本作ではバレリーナを断念する人生など一顧だにしない女性が,純粋な白鳥と邪悪な黒鳥の両極に翻弄される.アロノフスキーは2つの作品を「姉妹の関係にある」と述べている.肉体的に破綻,精神的に崩壊を辿るニナ/ナタリー・ポートマンNatalie Portman)の繊細かつ堂々たるパフォーマンスは,全身に沁み込んだ猛毒が噴出する狂気の乱舞.名実ともにこれまでのキャリア最高峰に達したといえる.脇役と片付けるには余りに惜しいバイプレーヤーの堅実さも忘れてはならない.ニューヨーク・シティ・バレエ団の花形プリマも新旧交代を迎える.ステージを追われるその実力者にウィノナ・ライダー(Winona Ryder).

 かつての清純派の面影は一掃された斜陽のイメージが,真鍮のごとき鈍い光を放つ.彼女が使用していた口紅をニナは盗む.これで実力も拝借しようというジンクスに,ニナの弱さと狡猾さがある.厳格だが才能に溢れる舞台監督はヴァンサン・カッセル(Vincent Cassel).演舞の猛々しさと繊細さを深いレベルで理解し,表現技法を心得た力量が,ニナやリリーに対する指導への説得力をもつ.そしてニナの人生を支配し束縛し続ける母はバーバラ・ハーシー(Barbara Hershey).ニナは精神錯乱のレベルを確実に深めていくが,母の描いた数々の肖像画からの視線,懲罰的な爪切りのストレスは意識の深層までダメージを及ぼすものだった.肩を掻き毟り指の爪が破損し流血する描写は,母に対するニナの非難と恐怖の表れ.バレエのシーンの優美さよりも,これまでアロノフスキーが描いてきた「π」(1997),「レクイエム・フォー・ドリーム」(2000)に通じる疾駆するスリラー描写を楽しむべきという声も挙がっているが,黒鳥の妖艶な羽ばたきにこそ,芸術のナルシシズムと倒錯の極致があるといえよう.

 初期の《白鳥の湖》では,白鳥と黒鳥は別々のバレリーナが演じていた.それを改めプリマドンナに独演させる現代的なバレエを多数鑑賞し,清純なオディットと妖艶なオディールの潜在性に映画の題材を求めたアロノフスキーの着眼点は,古典的な命題を扱いながらも斬新.本作はフォックス・サーチライト・ピクチャーズによって1,000万から1,200万ドルの製作予算を与えられた.だがプロトゾア・ピクチャーズとオーバーナイト・プロダクションズの融資提供の話に漕ぎ着けるまで,資金繰りは非常に難航した.前作「レスラー」でも同様にプロポーザルで苦心惨憺している.本作ではポートマンやカッセルのような華々しいスターが出演することを見越しても,仏頂面を崩そうとしないプロダクションの義侠心の乏しさ.時代に受ける映画を要望するのは理解できるが,安易に手堅さを求め続ければ,金剛力を秘めた映画を潰すことになる.予算が潤沢であることが祟って失敗する例も当然ある.けれども企画の段階で作品の真贋を見極める眼力を養っていただきたいものだ.

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原題: BLACK SWAN

監督: ダーレン・アロノフスキー

108分/アメリカ/2010年

© 2010 Twentieth Century Fox