▼『決壊』平野啓一郎

決壊(上) (新潮文庫)

 地方都市で妻子と平凡な暮らしを送るサラリーマン沢野良介は,東京に住むエリート公務員の兄・崇と,自分の人生への違和感をネットの匿名日記に残していた.一方,いじめに苦しむ中学生・北崎友哉は,殺人の夢想を孤独に膨らませていた.ある日,良介は忽然と姿を消した.無関係だった二つの人生に,何かが起こっている.許されぬ罪を巡り息づまる物語が幕を開く.衝撃の長編小説――.

 葉原連続殺傷事件(2007年)を予見させるような設定で,現代社会に潜む病巣を照射したと喧伝された小説である.タイムリーであるということ,それが人間社会を苛む周期性をもったものであるかは別問題である.無差別テロや殺人の温床となるのは,世界に対するルサンチマン(怨念).美青年ジュリアン・ソレルと美貌の人妻レナール夫人の姦通事件,これは貴族階級と聖職者が社会を支配している構造で起きたというスタンダール(Stendhal)の『赤と黒』を彷彿とさせる.

 「文学史」的に見れば,『カラマーゾフの兄弟』のイワン,また『罪と罰』のスヴィドリガイロフがルーツになると著者は自評している.表向き強固な階級制を布いていない現代日本でも,「もてる者」「もたざる者」が軋みを立てて対立していることに変わりはない.その軋む音が大音響になってきている点に,同時代の「生」の困難性がある.その構図では,いまや不特定多数に瞬時に拡散される情報技術なしに成り立たない,社会システム・エラーの「悪しき演出者」が異様な存在感をもつ.

 高度にネットワーク化された仕組みの中で,人間関係を著しく損傷させうる「つながり」の脆弱性.そこから染み出るような悲劇的要素が炸裂すると,個人の破壊が関係性の「決壊」となって分散し,誘発された新たな破壊が連接的に起きる.親密な他者からの承認を得られない人々の集合が,本書の兄弟を取り巻く係累であり,ごく平凡な装いをとっていた.そこに「悪魔」「離脱者」を名乗る悪の行為者が出現し,行為の至当性に熱弁を奮う.

 確たる連帯をもたない個人の結合体は,教条的な背徳に恐怖し無力にうな垂れることになる.理解しがたい悪の不条理に,現代の規範は対抗力(解毒剤)を持ちえていないのではないか.スケールの大きさをもって構想された本書は,観念的には絶望と苦悩というトーンが優勢に立つ.現代社会の地平を展望するには,誰しも絶対的な悪に無防備であることを示さなければ,不可能との趣旨が読み取れるだろう.

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原題: 決壊

著者: 平野啓一郎

ISBN: 9784101290416, 9784101290423

© 2011 新潮社