致死率100%の狂牛病,クロイフェルト=ヤコブ病を引き起こす病原体.たった一片で脳をスポンジ化し,放射線も高熱も生き延び,遺伝子もないのに進化するこの病原体の正体は?生命の概念そのものを覆す戦慄の事実――. |
冒頭で「悲惨な話ではあるが,これはフィクションではない」と警告しているが,BSE(牛海綿状脳症いわゆる狂牛病)の脅威は現実のものとなり,人類に深刻な影響を及ぼしている.プリオンという異常タンパク質がBSEの病原体として疑われ,従来の病原体とは異なる特性を持つことが問題をさらに複雑にしている.プリオンは通常の消毒法や殺菌法が効かないばかりか,感染体内で増殖するにもかかわらず,従来の微生物のような核酸を持たないという,従来の生物学の枠組みを超えた存在である.この異常タンパク質が引き起こす脳内のスポンジ状の損傷は100%の致死率を伴い,その恐怖は感染後の対策が現時点で皆無であることにさらに拍車をかけている.スタンリー・B・プルシナー(Stanley B. Prusiner)が提唱したプリオン仮説は,1997年にノーベル生理学・医学賞を受賞することで広く認知されたが,この受賞に至るまでには多くの論争があった.プルシナーは当初,プリオン仮説を提唱した際に激しい批判を受け,「狂気の学者」とまで揶揄された.ノーベル賞受賞の背後には,彼が長年にわたり批判に耐えつつも粘り強く研究を続けた姿勢が評価されたという逸話がある.また,ノーベル賞の選考過程でプリシナーの受賞が決まった際,選考委員会内でも賛否が割れたとされ,プリオン仮説の受け入れには依然として慎重な立場があることが示されている.
18世紀のイギリスで記録された羊の奇病「スクレイピー」は,当時,単なる動物の病気として見られていたが,その後の研究で人間のプリオン病と関連性がある可能性が示唆された.19世紀に入ると,スクレイピーに感染した羊の肉が広く消費されていたが,ヒトへの影響が確認されていなかったため,BSE発見当初もその危険性は軽視されていた.この病気が「スクレイピー」と名付けられたのは,羊が異常な痒みを感じ,フェンスや木などに体をこすりつける様子から来ており,この行動が病気の発見のきっかけとなったというエピソードがある.BSEの脅威が明らかになったのは,本書が出版された3年後の2000年にイギリス政府が発表した『BSE調査報告書』によるものであった.報告書は当初,政府内での対応の遅れや無策が強く非難される内容だったため,公表のタイミングが慎重に検討され,最終的には報道機関がスクープする形で公表された.また,当時の英国政府は,BSE問題を過小評価することで国民のパニックを避けようとしたため,報告書の内容が一部伏せられ,後にそれが明らかになるとさらなる批判が巻き起こった.この一連の騒動は,当時のブレア政権にとって大きな打撃となり,政治的な問題としても取沙汰されることになった.
BSEの発生原因として挙げられる肉骨粉の製造過程の変化も,興味深い背景を持っている.1979年のオイルショックによって,石油価格が急騰し,これに伴ってレンダリング工場はコスト削減のため,肉骨粉の製造方法を変更した.この変更が,結果的に感染性プリオンが牛に広がる一因となったとされている.このエピソードは,世界的な経済問題が予期せぬ形で公衆衛生に重大な影響を与えた一例として知られる.牛の脳・脊髄・脾臓・胸腺・腸・扁桃腺など,病原体の潜んでいる可能性の高い臓器(いわゆる「特定臓器」)を人間の食材として売り出すのが禁止されたのは,BSEの感染牛が見つかって1年も経った後だった.英国医学研究協議会(MRC)の神経病理学部にいたヒュー・フレイザー(Hugh Fraser)は,当時のイギリス政府の態度に不信感を抱いた.政府は,飼料問題で損失を出した業者になんら補償を行わなかったのである.80年代の動物性飼料は,12パーセントにまでその使用率が高まった.70年代にはわずか1パーセントであったことを考えると,ポンドの価値が下落した影響で,牛のタンパク質補給源は,植物性飼料から動物性飼料へと急速に切り替えが進んだとみるべきであろう.
1989年2月,サウスウッド委員会は「発症予想は最高で2万頭,1996年には終結,人間へのリスクは極めて小さいだろう」と極めて楽観的に述べた.この委員会には,感染性スポンジ脳症の専門家が含まれていなかった.そして現実には,この予測は大きく外れた.1995年には14万3109頭,2002年の時点で18万頭以上もの牛がBSEを発症したのである.ところが,農業省の主任獣疫検査官キース・メルドラム(Keith Meldrum)は,1989年にBBCテレビに出演し,スクレイピーが人間に感染する科学的根拠は何一つない,と説明している.英国医学研究協議会でフレイザーの同僚だったアラン・ディッキンソン(Allan Dickinson)は激怒した.羊から山羊への感染を実験で明らかにしたディッキンソンは,BSEの病原体が特定臓器以外にも存在することを突き止めていた.食用に当たる肉の部分である.
BSEの発生には不明な点が今なお多い.原因となる感染性の粒子が,いかなる形でも核酸と結合していないタンパクであるとするプルシナーの「単独プリオン説」は,チューリヒ大学分子生物学のチャールズ・ワイズマン(Charles Weissmann)によれば,「80%の研究者が支持する」という.しかし,実験の段階でヒトでもマウスでも系統によって脳の破壊され方が異なる.そのメカニズムは判っていない.正常なプリオンタンパクの機能についても,まだよく分からない.ただ判っているのは,工業生産物という形で牛に「共食い」を強いてきた結果,スクレイピーが牛に感染し,牛からさらに人間に感染するようBSEは変異を遂げてきたということだった.本書が描く最悪のシナリオでは,新型CJD(クロイツフェルト・ヤコブ病)がBSEによって広がり,致死率100%で人類に脅威を与える可能性が示唆されている.しかし,菜食主義者も安全でないという指摘が特に注目されている.ダニエル・ガイデュシェック(Daniel Carleton Gajdusek)の研究により,動物性飼料が鶏の糞に付着し,その糞が肥料として使用されることで,野菜もまた感染源となる可能性が示唆されている.この問題は,食物連鎖全体にプリオンがどのように影響を与えるかという議論を呼び起こし,菜食主義者やオーガニック食品の愛好者の間でも懸念が広がっている.プリオンの脅威は,エイズやエボラ出血熱とは異なる新たな脅威として認識されつつあり,本書の描く未来が予想を上回る形で現実となる可能性があることは否定できない.
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Title: DEADLY FEASTS
Author: Richard Rhodes
ISBN: 4794208324
© 1998 草思社